洋子の会社の仕事は平日は五時までである。いま四時だということは、洋子はまだ会社、というか、池袋のサービスルームにいるわけだ。
祥一は、鬼胡桃(おにぐるみ)を机に戻し、部屋を出た。傘をさし、アパートから歩いて二分たらずのところにある駄菓子屋に行き、店先の赤電話に十円玉を入れて洋子に電話をかけた。
洋子が仕事をしているサービスルームは、雑居ビルの三階にあって、電話が二つある。一つは事務所用の電話、一つは来客も使える公衆電話で、従業員である洋子に電話をかけるからには、事務所用の方にかけるのが本来だが、その電話の周辺には三、四人の同僚がいる。思うように話ができないから、自分に電話を寄こす場合は、公衆電話の方にかけてほしい、と前に洋子にいわれていた。
祥一は、その公衆電話の方にダイヤルを回した。洋子が直接受話器に出てくる場合もあるが、そのとき出てきたのは別の女性だった。
「片桐洋子さんはおりますか」
「はい、おります」
「ちょっとお願いしたいんですが」
「少々お待ち下さい」
その女性の声は、前にも何度か耳にしたことがある。先方でも、またいつもの人から電話がかかってきたと思っているふうで、こちらの名をたずねようともしなかった。
やがて洋子が受話器に出てきた。
「お待たせしました。片桐でございます」
洋子はあらたまった口調でいった。
「ぼくだよ、祥一だ」
「まあ、祥一さん」
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洋子の声に、にわかに親しみの響きがこもった。というより、何か安堵(あんど)したような声だった。
「お元気?」
「元気だよ」
「引越しの方は、もう落ち着いたの?」
「どうにかね」
「たいへんだったでしょう」
「いろいろとね。それで、君にも電話をかけられなかった」
微(かす)かな後ろめたさをおぼえながら祥一はいった。
「そう、それならいいんだけど。留守中お電話をいただいたんじゃないかしらと思って」
「北陸に行ってたの?ついさっき手紙を受けとったところなんだ」
「そうなのよ。こちらもしばらくあわただしい日が続いて……。でも、もうひと区切りついたの」
「土曜日の午後は空(あ)いているのかい?」
祥一はきいた。
「べつに予定はないわ」
「じゃあ、いちど部屋を見に、西荻窪にこないか」
「行っていいかしら」
「どうして?」
「お勉強のお邪魔にならない?」
「そんなこと、べつに構わないよ」
彼は内心苦笑した。
「あさっては土曜だから、十二時にはそこを出られるわけだね」
「出られます」
「それじゃあね、あさっての午後一時に、西荻窪の駅のすぐ傍にある『L』という喫茶店で落ち合おう」
そして、彼は、「L」の場所を説明した。
「あさっての午後一時、西荻窪の『L』ね」
洋子は念を押すように繰り返した。
1984年8月23日4面掲載 |