ログイン 新規登録
最終更新日: 2024-07-09 12:52:34
Untitled Document
ホーム > アーカイブ > 小説
2009年09月28日 13:19
文字サイズ 記事をメールする 印刷 ニューススクラップ
 
 
序曲(40) 金鶴泳

 そのうちに、ラジオの番組が変わり、ラジオ小説の時間になった。女性アナウンサーが、澄んだ声で小説を朗読しはじめた。
 小説は、志賀直哉の『暗夜行路』で、伯耆(ほうき)の大山(だいせん)の寺に泊り込んでいる主人公が、山に登るくだりだった。見知らぬ会社員の連れたちと一緒に、夜半に寺を発ち、「六根清浄、お山は青天」などと掛け声をかげながら登って行くのだが、身体の調子が本当でなかった主人公は、途中で落伍する。
 夜が明けたら、ここから一人で引き返すから、と主人公は連れの者たちと別れ、道端の、萱(かや)の生えている中で、山を背にして腰を下ろす。腰を下ろして休んでいるうちに、しばらくうとうとする。
 ふと目醒めてみると、すでにあたりは青味がかった夜明けになっている。主人公は、目の前にひろがっている下界を眺める。
「明け方の風物の変化は非常に早かった」
 女性アナウンサーの朗読の声が続いていた。空に目をやり、きくともなく耳を傾けていた祥一は、次第に小説の世界に引き込まれて行った。
「しばらくして、彼が振り返って見た時には山頂の彼方から湧き上がるように橙色(だいだいいろ)の曙光が昇ってきた。それがみるみる濃くなり、やがてまた褪(あ)せはじめると、あたりは急に明るくなってきた」
 アナウンサーの澄んだ声のせいもあったろうか、山の早朝の澄んだ気配が心にしみ込んでくるようだった。文字通り、昇天の慈雨の如く、心にしみ込んでくるようだった。


 祥一は、何か心を打たれるものを感じた。十分そこそこの短いその番組が終ったとき、彼は、一種の感動をおぼえていた。小説の文章、それも朗読の文章で、そんな気持になったのははじめてだった。
 自分はいままで小説に見向きもしなかったけれど、小説とはこんなに魅力のある世界なのか、と彼は思った。ごく短い時間、朗読を耳にしただけなのに、心が極度に乾いていたせいか、その印象は強烈だった。
 彼はふっと立ち上がり、部屋を出た。階下に降りて行き、さっき脱いだばかりの靴をまた履いて、下宿を出、お茶の水駅に近い本屋に行った。しばらく捜しているうちに、上下二冊になっている文庫本の『暗夜行路』が目についた。彼はそれを買い、すぐ下宿に戻った。
「おや、もうお帰りですか」
 階段の昇り口で顔を合せた家主の奥さんが、悠長な口調で声をかけた。祥一は昼食に出かけたのだと思ったらしい。そして、いつもだったら、彼はいったん食事に出ると、散歩をしたり、日比谷あたりまで足を伸ばして映画を観たり、帰りが夜になることがしょっちゅうだったのだ。いつもに似ず帰りの早い彼を奥さんは怪訝(けげん)に思ったようだ。
「ちょっとそこまで買物に行ってきたんです」
 さっきまで騒いでいた小学生の子供は、外に遊びに出たらしく、家の中は静かだった。居間では例によって亭主が裁縫台に向かっていた。
 二階の自分の部屋に戻ると、彼は机に向かい、早速『暗夜行路』を読みはじめた。食事に出るのも面倒臭く、夕飯代わりに二、三日前に買っておいたパンをかじりつつ、『暗夜行路』を読み続けた。
 読み終えたのは夜半すぎ、というより、明け方に近かった。読み終えたとき、彼の頭は熱を帯びていた。ひどく疲れているのに、頭は興奮し、結局彼は、その夜、一睡もできなかった。

1984年8月14日4面掲載

1984-08-14 4面
뉴스스크랩하기
小説セクション一覧へ
金永會の万葉集イヤギ 第15回
金永會の万葉集イヤギ 第16回
金永會の万葉集イヤギ 第17回
ソウルを東京に擬える 第31回 居酒...
韓商新会長に柳和明氏
ブログ記事
マイナンバーそのものの廃止を
精神論〔1758年〕 第三部 第28章 北方諸民族の征服について
精神論〔1758年〕 第三部 第27章 上に確立された諸原理と諸事実との関係について
フッサール「デカルト的省察」(1931)
リベラルかネオリベか
自由統一
金正恩氏の権威強化進む
北韓が新たな韓日分断策
趙成允氏へ「木蓮章」伝授式
コラム 北韓の「スパイ天国」という惨状
北朝鮮人権映画ファーラム 福島市で開催


Copyright ⓒ OneKorea Daily News All rights reserved ONEKOREANEWS.net
会社沿革 会員規約 お問合せ お知らせ

当社は特定宗教団体とは一切関係ありません