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2009年06月15日 00:00
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朴正熙 逝去30周年記念連載⑬ ― 生と死と
娘・朴槿惠の誕生、李龍文司令官の事故死
 

連載13 ― 家族愛と師への至情

 
 
1952年夏―。戦線は38度線によって膠着状態となった。100万人を越す軍隊がこぞって重武装をし、高地の争奪戦を繰り返していた。朴正熙はその頃、機動戦より残酷とされる高地戦・塹壕戦とは無縁の生活を送っていた。釜山では政治暴動が発生していたが、朴正熙は至って穏やかな家庭生活を過ごしていた。1952年7月2日の晩に彼が綴った「英修の寝顔を見つめて」という詩が残されている。
 
 

 

「更けるほどに静けさを増す夜/大理石のような白い肌/その顔からは百合の香りすら漂う/寝息はか細く/彼女は幸せの夢の国へ/愛する私の妻よ/寝顔はひたすら美しきかな/平和の象徴!愛の権化よ!/ああ!彼女の目、その耳、その鼻、その唇/彼女はまるで/仁と慈と善という3種の糸で織られた/ 1反の壮大な芸術品かのようだ/玉のようでもあり、金のようでもあり/どれほど混濁した世にまみれても/ゆく道は輝き/ただ美しくあれ

 
私の欠点、そして至らぬ点は/優しく、そして情け深く、偉大で女性らしい彼女の人格に/吸い込まれ、同化され、定着され/1人の男の個性としてよみがえり/完成されるのだ
 
幸せに酔う今夜/彼女の持つ無限の引力が/人生の道しるべとなる
 
 彼女の安らかな寝顔を見つめ/今宵が過ぎ また朝が訪れても/私は彼女の横で彼女を見つめ/この幸せな時間が/永遠に続くようただ祈るばかりだ」
 

 

 

  妻に対し、尊敬にも似た愛を素朴な詩で表わしている。ここから、朴正熙が陸英修からある種の母性愛すら感じていたことが伺える。朴正熙の心をさらに満たしていたのは、当時生後5ヶ月だった娘・槿惠の存在だった。前年、陸英修は槿惠を妊娠した。つわりの時期になると、英修は心を落ち着かせるため暇さえあれば洗濯をしていたという。洗濯ばかりしていたため、指先がひび割れるほどだった。夜は毛糸で赤ん坊の服を編む日々が続いた。
 
 
 陸英修の陣痛は、1952年2月1日の夜、大邱市三徳洞の自宅で始まった。同居していた英修の妹・イェスと、英修の母・李慶齡は留守だった。朴正熙は産婆を呼び、個室に招き入れた。朴正熙は隣の部屋で始終ソワソワとタバコを吸い、妻の苦しむ声を聞いていた。この状況では当然眠れるはずもない。朴正熙は、妻のいる個室へと入った。陸英修は机の脚を掴み、必死で力んでいた。顔からは大粒の汗がダラダラと流れていた。
 
 
 「あんなに苦しんでいるのに、何か楽になる方法はないのですか!もう見ていられません!」
 「我慢してください」
 
 

 産婆はあっさりと言い放った。朴正熙は、赤ん坊が産まれる瞬間まで妻の手を握り、見守っていた。産まれたのは明け方だった。娘だった。朝、妹の陸イェスが帰ってきた。朴正熙は当分の間、昼はわざわざ家に戻って昼食をとり、妹と共に槿惠の沐浴も手伝った。朴正熙は娘の成長過程を記録しようと、ひたすら写真を撮った。娘の名前は朴正熙が必死で辞書をひきながら考えた。「無窮花(槿花)」からとった「槿」の文字は「祖国」を象徴している。

 

 
 朴正熙と前妻・浩南の間に生まれた娘の在玉は、故郷(善山郡上毛洞)で暮らしていた。父との会話の手段は主に手紙だった。一時期、朴正熙の甥・朴在錫の家で生活していた頃、在玉は父への手紙でたびたび窮状を訴えていた。

 

 「お父さん、私には両親がいるのに、私はなぜこうして他人の家で暮らさなければならないのですか。私が同居していることで、いとこのお兄さんがいかに煩わしい思いをしていることでしょう。私がどれほど肩身の狭い思いをしているかお分かりですか?お兄さんも大変だし、私も辛いです」

 
 
 こうした手紙に対し、朴正熙は「若いうちの苦労は買ってでもしろと言われる。一生懸命頑張りなさい」という主旨の返事を学校の公納金と共に送った。朴在玉が亀尾女子中学校に通っていた頃、父の再婚話を知った。槿惠が生まれた直後だった。在玉は、周囲の大人から再婚話を聞かされても特に驚きはしなかった。すでに、かなり以前から「お父さんには違う女性がいる」という話を母から聞いていたからだった。

 

 

突然の事故、追悼の日々

 

 

 李龍文准将が作戦局長から首都師団長に就任して3ヵ月後の1952年10月、朴正熙は、砲兵へ転科した。当時、陸軍の砲兵監だった申應均(陸軍中尉予備)は砲兵を増強した。砲兵団長要員として選ばれた古参の大佐20数人の中に、朴正熙も含まれていた。

 
 砲兵の将校ら、当時にしては比較的知的レベルが高かった。砲兵の将校らは職業柄、ほとんどが細かい性格になるという。彼らはまた「武器は短いほど裏切る」とも言った。拳銃による裏切りは多く、大砲を持つ砲兵には忠誠心がある、という意味のジョークだ。朴正熙は光州の砲兵学校で4ヶ月間の教育を受けた。陸英修は娘の槿惠をおくるみに包み、光州に移った。新居は東明洞に構えた。引越しのため、陸英修と娘をL―19飛行機に乗せた操縦士によると、引越し荷物が軽飛行機に収まるほど身軽だったことに驚いたという。
 

 

 1953年6月24日の晩、大邱嶺南日報の論説委員・具常は、李龍文の到着を待っていた。やがて、1本の電話が鳴った。朴正熙大佐からだった。「李将軍の乗った飛行機が墜落し、死亡した」という内容だった。

 

 

 「バカ野郎!死ぬとは何事だ、死ぬとは!」
 

 

 李龍文南部警備司令官はこの日の午後、冴えない気分で南原から飛行機に乗った。李将軍が「こんな悪天候で本当に飛べるのか」と操縦士に訊ねると、操縦士は「雲さえ抜ければ大邱までは余裕で飛べますよ」と答えた。李龍文は、副司令官の兪海濬大佐と碁を打った後、のんびりと飛行場へ向かった。雨が降り始めていた。兪海濬は、飛行機が離陸する音を聞き「飛行場への到着もかなり遅れたようだな」と考えていた。

 
 
兪海濬が夕食をとっていた頃、警察から連絡が入った。「雲に覆われた峰に飛行機が墜落し、米国の軍人が死んだらしい」とのことだった。彼はハっとして大邱の飛行場に問い合わせたところ、李龍文が乗った飛行機が到着していないということが分かった。警察は、長身で色白だった李龍文を米国人だと誤認していたのだ。25日の朝、現場に到着した李龍文の長男・李健介(前自民連・国会議員)によると、田んぼに機体の前半分がのめりこんでいたという。李龍文は後部座席で死亡していた。操縦士も亡くなった。李龍文は当時、まだ37歳という若さだった。

 

 「李龍文が生きていれば、朴正熙は彼を推戴し、クーデターを起こしていただろう」と推測する人々は多い。本来プライドの高い朴正熙が、心底服属した唯一の人物が李龍文だったのだ。朴正熙はその後、李龍文の遺族に対してあらゆる便宜を図った。大統領に就任する前までは、朴正熙は李龍文の命日には必ず陸英修と共に未亡人となった金静子女史の家を訪れ、李龍文を追悼した。自らに金銭的余裕がない時でも必死で金を工面し、遺族の生活費へと充てた。

 

 5.16の後、大邱近郊に置かれていた李龍文の墓を水踰里に移すための移葬委員会が発足した。委員長を務めたのは朴正熙最高会議議長だった。李龍文の墓を建てる時は、出資金を募るため縁故者らにあてて趣旨文が送られた。趣旨文は朴正熙、具常の2人の名義となっていた。陸軍士官学校で毎年開催されている「李龍文将軍杯争奪乗馬大会」は、騎兵将校出身の李龍文を称えるための行事だ。この行事も、朴正熙大統領の積極的な後援によって始まったという。李龍文の長男・李健介検事を青瓦台秘書室付に任命した後、31歳でソウル市警局長に就任させたのも朴正熙だった。

 
 

 朴正熙大佐は1953年7月、休戦直前に光州で創設した3軍団砲兵団要員らを連れて江原道楊口へと移動した。当時の軍団長は姜文奉少将だった。姜文奉は朴正熙より6歳年下で、満州軍官学校では2年後輩だったが、朝鮮警備隊に入隊していたため上官となっていた。朴正熙は上官として接してはいたものの、内心は複雑だったようだ。姜文奉は1975年の「丁一権大統領推戴事件」で収賄罪で拘束され、懲役を受けた。この事件は、丁一権姜文奉らに対する朴正熙の「疑念」が、第三者によって政治的に利用され、操作されたことによって発生したといえる。

 

 

 朴正熙が3軍団の砲兵団長だった頃、専属副官は「鳥博士」の異名を持つ元炳旿中尉だった。元教授によると、朴正熙は砲兵団に派遣されていた米軍顧問団とは大そう仲が悪かったという。米軍将校が何らかの口出しをしようものなら、韓国語で「寝言もたいがいにしろと言え!」などと声を荒げた。通訳将校は苦労したようだ。

 
米軍顧問団が、韓国軍の炊事場から200m離れた上流に便所を構えようとした。米軍によると、地下水に糞尿が混入されないようにするためだという。朴正熙は「飯炊き場の近くに便所をつくるのは我々の風習に反する。韓国では韓国の風習に従え!」と強調し、便所の設置を拒否した。朴大佐は、顧問団長のベイカー中佐が、自分に対する苦情を上層部に報告したことを知ると、ベイカー中佐を呼び出してはきつく問い詰めた。

 

 当時の副団長は、洛東江戦線から帰順してきた人民軍の砲兵中佐出身・鄭鳳旭大尉だった。米軍では、南朝鮮労働党の前歴者と人民軍出身が共に勤務することを問題視し、鄭大尉を他の部隊へ就かせようとしていた。朴正熙は「鄭大尉が帰順したのは人民軍が有利だった頃だ。彼を疑うべきではない」と弁護したが、役不足だった。鄭鳳旭は後に5.16事件にも加担し、少将予備となった。

 

 専属副官・元中尉の目に映った朴正熙は「部下に暴力を振るうこともなく、悪口も言わない」といった人物だった。暴力といえるのは、せいぜい指揮棒で鉄帽を軽く叩きながら「この、間抜け!」と言う程度だった。元炳旿は、一見して大胆に見える朴正熙団長が、意外にも気が弱い一面を持つことを知っていた。上官らに報告する際、緊張で手を震わせることもあったのだという。

 

                 
移動中の朴正熙大統領。陸英修女史と(写真=国家記録院)

 

(翻訳・構成=金惠美)

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記事: 統一日報社  
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