こうして「金」という名で受験し、大学に入ったのだが、自分の名を呼ばれ、窓口に書類を受けとりに行ったとき、祥一は、これからずっと「金」と呼ばれることに対する違和感から、自分の通名は「森本」なので、これからもその名を使いたい旨、係員に申し出た。すると、五十年配の係員は、ガラガラ声で、
「ときどきそういう人がいるんですがねえ、これがどうも紛らわしいんですなあ。学籍簿の方は本名になっていますんでねえ、ややこしいから本名で通してくれませんか」
高校の担任の先生の場合とは対照的に、係員の口調はあっけらかんとしていた。どうして本名を使うのをいやがるのかなあ、といった調子さえその声には感じられた。
<違和感というより、朝鮮人と見られることへの抵抗感だったな>焼鳥の匂いの中で、盃を口に運びながら祥一はそのときの自分を振り返る
<あのときから俺は、森本という半日本人から、否応なく金という名の朝鮮人にさせられた……>
じっさい、祥一は、入学直後のあの日を思い返すとき、あの日から、「金」という名の朝鮮人になったというより、させられた、という意識の方が強い。当惑した心に、春の陽光の中で照り映えている銀杏(いちょう)の木の若緑が、変にまぶしく映ったのを憶(おぼ)えている。あの日から、自分の中で何かが変わり、何かがはじまった……。
とにかく、あのときから、自分は通名でなく、本名を名乗るようになった。朝鮮語も喋れない、パンチョッパリ(半日本人)もいいところの自分が、れっきとした朝鮮人であるかのように、朝鮮名を名乗ることになった。
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では、自分よりはるかにれっきとした朝鮮人であり、民族主義者である父は、なぜ「森本」という姓を棄てないのだろう-そんな疑問がふと祥一の胸をかすめる-強い民族意識を持っているにもかかわらず、そして日本人と恋愛関係になったというだけで、娘の髪を切るほどに反日感情を抱いているにもかかわらず、なぜ日本名を平気で使っているのだろう。日本人を相手に商売している以上、父なりにやむをえない事情があるのかも知れない。しかし、そういうからには、妹純子にも、純子なりの事情があるといわねばならない。
その後、杳(よう)として行方の知れない純子の消息が、やはり祥一には気がかりだった。川瀬と一緒に、どこで暮らしているのか。これから先どうするつもりなのか。せっかく就職したスーパーマーケットの職を棒に振って、川瀬はいま何をしているのか。
貯金が残っているうちはまだいい。それが尽きたら、どうやって生活して行く気なのか。身許不明の人間を雇ってくれるような、まともな働き場所があるとも思えない。追い詰められて、気持が崩れて、転落の道に陥って行きはしないか、それが祥一には心配だった。無口でおとなしいながら、芯の強いところがあるらしい純子だけれども、人間、追い詰められたら、何を考え出すかわからない。せめて自分のところだけにでも、居場所を知らせてくれてよさそうなものだが……。
店の前の、路地と狭い空地を隔てたすぐ先は、駅のホームの白い柵になっている。柵の向こうに電車が発着するたびに、微かな地響きが椅子の下から伝わってくる。
カウンターの向かい側に坐っている客のあいだがら、ひとしきり笑い声が起こった。いずれも半袖シャツに、きちんとネクタイを締めている。会社の同僚同士なのだろう。
「お父さんの造った酒はうまかったかい」
冷やっこをつまんでいた伊吹が、話を密造酒の件に戻した。
1984年8月2日4面掲載 |