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2009年04月05日 09:51
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序曲(27) 金鶴泳

「どうして生きているのがやりきれないのかい」
 祥一は伊吹にいった。伊吹は祥一にちらっと視線を向け、正面の食器棚に顔を戻し、笑みを消して答えた。
「いろいろなことのためにさ」
「いろいろなことって……」
 伊吹が変わった人間、というより、異様な人聞になっている原因がその辺にあるような気がして、祥一は重ねてきいた。しかし伊吹は答えず、
「じゃあ金さんの場合はどうしてやりきれないんだい」
 と、逆にきいてきだ。祥一は返答に窮した。何となく、としかいいようがないし、そんな気持にとらわれるようになった経緯をいちいち説明し出したら、切りがない気がして、
「別に、理由はないよ。ただ何となく、そういう気持になっているということだ」
 祥一は曖昧(あいまい)に答えた。
「理由がないはずはない」
 伊吹はジョッキを口にあて、ひと口飲んでから、また祥一に視線を向けた。
「たしかにその通りだ。しかし、理由について説明するとなると、簡単には言葉にならない」

「俺だって同じだよ。人間というものは、説明では片が付かない。説明だとか、理屈だとか、そんなものを並べて人間や社会がわかったような面(つら)をさらしている奴を見ると、反吐(へど)が出る気がするね」
 強い口調だった。その点は、祥一も同感だった。わかるとは、わからないということがわかることではないのか、自分自身さえわからない人間が、どうして他のことがわかりえるだろう-カウンターの中でシチューを作っているコックに目をやりながら、祥一は思う。
 その点は異存はないが-と彼は伊吹に関心を戻し-サー口インステーキを頬張る人間が、人生がやりきれないなんていうのは、どうもわからないねえ、ステーキの精力で、やりきれなさなんか吹き飛んでしまうんじゃないか、祥一は自分の中でそう呟(つぶや)いて苦笑をおぼえた。
「ところで、いま何を読んでいる」
 祥一は煙草を取り出し、火をつけた。
「『白痴』」
 と、伊吹はまたジョッキを口にあてた。
「相変わらずドストエフスキーばっかりか」
「そのうちにドストエフスキー論を書こうと思っているんでね」
「どこかに発表するのかい」
 祥一は、伊吹が何かの同人雑誌にでも関係しているのかと思った。
「発表するつもりはない。ただ、俺なりにドストエフスキーを整理してみたいと思っているんだ」
 伊吹はそういってから、
「金さんは、『白痴』は読んだ?」
「まだだ」
「ぜひ読んでごらんなさい。ムイシュキン公爵は、じつに魅力ある人物ですよ。あの無垢(むく)さ、純粋さ。ああいう人物を、情欲の強いドストエフスキーがどうして創造しえたんだか」
 そして、こんどは呟くような口調で、
「美は世界を救う」
「え?」
「いや、ムイシュキン公爵の言葉。まったくこの世の中、じつに下らないけど、それでも生きている値打ちがあるのは、美があるからだ。そう思いませんか」
 伊吹の言葉に、祥一も異論はなかった。
「同感だね」
 祥一はいった。

1984年7月26日4面掲載

1984-07-26 4面
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