柳根一(元朝鮮日報主筆)
私は天主教の洗礼を受けた天主教信者だ。もちろん今ごろは「冷淡者」に分類されているはずのろくでもない信者ではあるが。そして天主教の教籍を持っていながらも、仏様の教えに対して無限の愛慕の念を抱いている、それで仏教を尊敬しながらも、その道伴(一緒に修道する友)に参加する資格はない、あれこれ肩の足しにも裾の足しにもならむ存在だ。
だが、一部の神父たちや一部の僧侶たちの言葉と行動を見ると、私は私が熱烈な天主教信者でも、資格のある仏教信者でもないことがむしろどれほど幸いなことなのかという気がする。たとえ、天主教界と仏教界の全体や多数を代表するのではなくても、私がそのうち運悪くあのような一部の神父や一部の僧侶らの講論や説法を聞かず済むだけでも、イエス様と仏様の無限の愛と大慈大悲の祝福を受けたような気がしての話だ。
もっとも、イエス様が直接面接して選抜された十二使徒の中にもユダという種があったから、その方より低い階級のローマ法王、大主教、主教が叙品した司祭らの中にはあらゆる変な種がないはずもないが、そして昔も「弓裔」や「辛吨」のような怪僧たちが惑世誣民したことを見れば今日の仏教界にもどうせあのような変な種類らがなくはないだろうが、それでもあのような種らと仕方なく同じ釜の飯を食べざるを得ず、我慢するしかない絶対多数の立派な天主教信者様や仏教信徒の方々の精神的苦労を思えば、何でもない私がその方々に気の毒な気持ちや憐憫を感じたりする。
だが、どうしよう。この世はどうせ苦海だと言ったではありませんか? 私は少しもそうするつもりがありませんが、絶対多数の立派なイエス様、仏様の弟子の方々は、私のようなこうでもああでもない「不真面目」らを煉獄や餓鬼道から救援して下さるためにも、辛いでしょうが、あのような変な種らを同じ垣根の中に抱かれて辛抱強くお祈りし、勇猛精進なさることをお願いします。ありがとうございます。
柳根一の耽美主義クラブ
http://cafe.daum.net/aestheticismclub 2009.02.05 20:52 |