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〔天武紀〕
〝壬申の乱〟は改革ではなく倭地勢力と韓地勢力の覇権闘争
〝壬申の乱〟は、天智と天武の兄弟による王位継承の争いというのが通説だが、はたして、そうだろうか。〝壬申の乱〟は、百済べったりから一人立ちして日本の朝廷を打ち立てた大革命であり、日本以外のすべての国を外国と考えたはじめての天皇が天武だと見る向きもある。
さらには、天武が企図した『古事記』と『日本書紀』の編纂は、日本の独立宣言書と見る向きもあるのだが、そのココロは何なのか、が明らかでなければならず、それらの疑問が明らかにされるべきだと思われる。
〝壬申の乱〟が、単なる兄弟争闘による王位継承の争いではなく、韓地系百済(温祚百済)勢力と沸流百済系勢力の覇権闘争であったことを明らかにした。
韓地系百済勢力は、天智の勢力で、子の大友王子に引き継がれたのだが、その勢力の始まりは皇極からと思われる。皇極の実体は、百済義慈王の妹の宝姫であり、夫舒明の妻であることから倭人と同様に見なされ、舒明の死によって王位に着いた。沸流百済系倭地勢力の王族が大王に就任するという暗黙の了解ごとの例外となったのだ。
それを機に、皇極と強い血縁関係にある中大兄王子(天智)が主導して〝乙巳の変〟を敢行し、韓地勢力が倭地勢力を排斥したのだが、中大兄王子は、大王に就任することができず、孝徳朝が誕生し、その孝徳朝が終焉しても、太子であった中大兄王子は大王に就任することができなかった。
それほどまでに、沸流百済系倭地勢力の、中大兄王子、つまり韓地勢力に対する抵抗が強かったと考えられるのだ。そして登場したのが、皇極が重祚する形の斉明朝だ。その斉明が死去すると、やっと中大兄王子に鉢が回ってきた。その妥協策として、沸流百済系倭地勢力は、天智は一代限りの大王として容認し、大海人王子(天武)を太子に送り込んだと考えられる。
ところが、意に反して、天智は、沸流百済系倭地勢力との約束を反故にして、子の大友王子、つまり韓地百済系勢力の大王を維持しようとしたのだ。当然のごとく、太子である大海人王子とその後ろ盾の沸流百済系倭地勢力の怒りは爆発し、〝壬申の乱〟へと発展したと考えられる。
『古事記』と『日本書紀』は日本の独立宣言書
「アメリカ合衆国は、1776年に独立宣言して建国したから、現在まで300年足らずの歴史しかならず、アメリカの歴史は、日本の古民家より新しいのだ」というアメリカ人が、「日本人は、遠い遠い昔に、空から降りてきた神様たちが、日本の国土を造ったと信じている」と言って驚くそうだ。
「日本の歴史教科書には、天皇がどこから来たのか書いていず、高千穂峰に降りたとなっていて、本当のところ、日本人自身も知らないのだ」と言って、さらに驚き、「日本は優秀な国なのに、歴史の方は遅れているね」という答えになって笑うそうだ。
日本の歴史が分からなくなった原因は、勝てば官軍負ければ賊軍の方式で、戦争に負けると寺社仏閣まで火を放たれて、重要な古文書まで焼き捨てられてきたことにあるという。そのために、神社の由緒などが分からないというケースが多いそうだが、それ以上に、罪深いことは〝韓隠し〟と言わねばならないだろう。
天智が死去した当初、朝廷を掌握していた大友王子は、朝廷軍を支配していたから、その軍事力は強大であった。その間隙を縫って、裸同然に吉野に逃れた大海人王子は、舎人らの働きで、沸流百済系倭地勢力の私兵を中心に軍事力の動員に成功し、近江朝の官軍に匹敵する軍事力を確保した。そして、大友王子の王位継承を退けたと思われる。
大海人王子は、天智らの韓地系勢力の横暴を骨の髄まで経験したのか、そうした韓地系百済勢力を排斥する方向に進み、その排斥は、すべての外国に及んだと思われる。その完全独立宣言書が、『古事記』と『日本書紀』ということだ。
それらの史書が偽史と指摘されるのは、〝韓隠し〟を徹底したことから、先祖の出自がまったくぼかされてしまったからだ。人間が天から降ってきたり、木の股から生れる筈がないはずだ。それがまさに小説のような『日本書紀』を生みだしたのだ。
にもかかわらず、天孫族だなどと称して、先祖の真実のありようには目もくれず、あり得ない奇異なことを当然のごとく受け入れる気質は、まさに笑止千万というほかない。〝韓隠し〟を容認することなく、先祖探しをすることこそが緊要だと思われる。
〝韓隠し〟は日本の得意ワザ?
貧乏な所帯から大学までやってくれた親に恩返しすべく、実業の道を、当然のごとく選択する筈であったが、幼い時から、本を読むことが好きで、本の世界に陶酔するようになっていた。
貸本屋などから借りてきた本を布団の回りに積んで、寝ころびながら本を読んでいると、母から、本と一緒に寝てるのか、ちょっとは片づけるように、などと小言を言われたものだが、学生時代も多くは読書三昧の生活であったような気がする。
疲れは、肉体労働からくるものだとばかり思っていたのだが、後になって、脳も疲れることを知り、わけもわからず凶暴になったり、自虐性に苛まれることもあると気付いた。齢も老境になって、学生時代は、時にそういう状態にあったことに気づき、以来、人生は短いものと承知しつつも、健全な精神状態を保つために十分に寝ることに心がけている。
とまれ、そんな学生時代に、韓民族の小人である自分が、韓半島に生きていて当然なのに、どうして日本列島の片隅で生きているのかが疑問になった。その不条理にあれこれ悩むうちに、自分探しの旅がはじまったように思う。
いつの間にか、親への恩返しも忘れてしまう親不孝者となり、おカネよりも読書が好きな日常となった。そのうち、自分探しが、韓民族探しの旅となり、自分が今いる日本列島の歴史に執着するようになった。親には「すまない」と謝っても許されないかも知れないのだが、自分よがりの気ままな人生も残り少なくなった。
韓民族は、はるか遠い昔、中東付近に居住し、トルコ民族や中国苗族とは同族であったというのだが、韓民族を含む一団が中東付近からインドを経て、韓半島に定着するようになったと、何かの本で読んだ気がする。
最近、トルコ南東部で、約1万2000年前の建造物跡が発掘されたというニュースに触れて、ああ、本当なんだと実感した。駕洛国=金官伽耶国の建国王である首露王の妻は、インド・サータヴァーハナ朝の王女の許黄玉とされ、韓国がインドでその由縁の遺跡を発掘したというニュースも流れた。その一団は、旧満州付近で二手に分かれ、韓半島に進んだのが韓民族で、中国南部に向かったのが苗族だという。韓民族と苗族が同族であったろうことは、歌垣などの行事で偲ばれる。
日本列島は、韓地からの渡来人によって開拓されたものであり、あらゆる技術、文化、宗教なども韓地からもたらされたものだ。それを、いつからか、〝韓隠し〟をするようになり、明治時代に入って、日本民族は日本列島で自生したように装い、大恩あるはずの韓国(朝鮮)を侵略し、併合してしまった。
とんでもない蛮行というほかないのだが、日本は、〝韓隠し〟と同様にそれらもなかったかのごとく隠蔽しようとし、責任の所在を曖昧にしてしまう。〝韓隠し〟は日本の得意ワザというべきものかもしれないと言いたくなるのだ。
『日本書紀』を解体すれば〝韓隠し〟の書だった
〝壬申の乱〟が、韓地系百済(温祚百済)勢力と沸流百済系勢力の覇権闘争であったことを明らかにし、それとともに、中大兄王子(天智)が主導した〝乙巳の変〟は、新らたな政治を目指したというクーデターではなく、韓地(温祚)百済勢力が、倭地(沸流)百済勢力から政権を奪取したものであったことを明らかにした。
第35代舒明の妻となった皇極の実体は、百済義慈王の妹である宝姫であり、皇極が王位に就くことによって、韓地系百済勢力が、沸流百済系倭地勢力が掌握する大和朝廷に、その勢力を扶植することができるようになったと考えられる。
天智も韓地系百済勢力であり、子の大友王子に引き継がれることによって、沸流百済系倭地勢力の朝廷は乗っ取られる形になった。その沸流百済系倭地勢力の総意が、大海人王子(天武)を表に立てて、朝廷を奪還することであった。
天武が発案したという『古事記』と『日本書紀』の編纂は、倭国の独立宣言書といわれるのだが、では、何からの独立宣言だったのか、そのことは曖昧にされて、明らかにされていない。
金沢庄三郎著『日鮮同祖論』は、「昔はまだ見ぬ金銀の国と憧れた朝鮮は、次第次第に人々の心から離れて遠ざかるようになった。今の世間が朝鮮の事に無理解で冷淡であるというのも、その根拠をたどればずいぶん昔からのことであるといわねばならない」と述べるように、倭国から見ての韓地は崇敬の国から、侮蔑への国へと変化した。
『古事記』と『日本書紀』は時に偽史と指弾されるのだが、その原因は〝韓隠し〟を徹底したからだと思われる。『日本書紀』を韓流の視座から解体し、〝韓隠し〟を指弾するのが目的であったが、その目的が正しかったことを確信した。、 |