釜山大学の学生たちの「維新撤廃」のスローガンと示威(10月16日)で始まった「釜馬事態」は、示威が馬山地域へ拡散し、政府は10月18日午前12時をもって釜山に戒厳令を宣布した。10月20日の午前12時、昌原一帯に衛戍令を宣布、軍を投入した。韓米連合司令官の作戦統制権外の特戦司の兵力だった。暴力示威に加担したスパイや民間人59人を軍事裁判に回付した。
中央情報部長は釜馬事態の現場を訪問した。金載圭は状況の深刻さを「民乱」と捉えた。事態の収拾方案に関連し朴正煕大統領は中央情報部長の意見より警護室長の主張に傾く姿を見せた。
朴大統領の10月26日の公式日程は、午前にヘリで忠南唐津へ移動し、挿橋川の防潮堤竣工式とKBSの唐津対北送信所の竣工式に出席した。朴大統領は道高ホテルで昼食後、ヘリコプターで帰京した。警護室長の車智澈は、中央情報部長金載圭の大統領ヘリコプターに同乗要請を拒否した。
乗用車で移動して竣工式に出席した金載圭は、帰京後、午後にグライスティン駐韓米国大使に会った。金載圭はその頃、グライスティン大使とCIA韓国支部長にもしばしば会ったという。
午後4時過ぎ頃、金載圭は警護室長の車智澈から18時頃から朴大統領のための晩餐を準備するようにという連絡を受けた。場所は青瓦台から近い宮廷洞にある中央情報部の特殊施設で、参加者は朴大統領、金桂元秘書室長、金載圭、そして車智澈だった。金載圭は部下たちに晩餐の準備を指示した。食事の世話をする女性も2人同席するようにした。
金載圭は、大統領の晩餐の準備と同時に、朴大統領殺害を決心、随行副官など側近たちに、大統領警護員たちを制圧(殺害)するように指示した。彼は、朴大統領を自ら直接殺すため拳銃を点検、携帯した。金桂元秘書室長は車智澈除去に同調した。
金載圭は、以前から朴大統領を除去する機会を窺ってきたことが明らかになった。金載圭は鄭昇和陸軍参謀総長に電話をかけて夕食を一緒にしようと宮廷洞の施設に招待した。金載圭は、中央情報部の第2次長補である金正燮を呼び、自分が朴大統領と同席している間、自分に代わって鄭昇和参謀総長を接待するように指示した。中央情報部長が大統領を殺害する瞬間、陸軍参謀総長が現場からわずか数十メートルの距離で数十発の銃声を聞きながらワインを飲み金載圭を待っていた。
金載圭は自分なりに静かに軍部を管理してきた。大統領の警護業務上、制度的に軍と警察を掌握、動員することができた車智澈は、もっと積極的に軍部を管理していた。金載圭と車智澈は、軍部の掌握や管理において競争関係だったともいえる。
金載圭は大統領と晩餐中、19時40分ごろ、自身の拳銃でまず車智澈を撃ち、至近距離から朴大統領の胸と頭を撃った。朴大統領は19時50分ごろ絶命した。朴大統領は近隣の米国人病院に移され、再び国軍統合病院に移され、そこで死亡が公式確認された。保安司令部(全斗煥司令官は)は、病院長を通じて大統領の有故事実を最も早く知ることになった。
金載圭は、犯行後の混乱の中で鄭昇和参謀総長の乗用車で陸軍本部へ移動した。結局、鄭昇和参謀総長と全斗煥保安司令官によって深夜に逮捕された。金載圭の叛乱は失敗した。崔奎夏総理が大統領権限代行となり、閣僚たちが直接大統領の死を確認した後、朴大統領の有故から約7時間後の27日の午前4時10分、非常戒厳令が宣布された。
(つづく) |