ドラマ『私たちのブルース』の登場人物たちはそれぞれに痛みや葛藤を抱えながら生きている。両親亡き後、わき目もふらずがむしゃらに働いて、弟たちを大学に行かせたウニ。愛人となった母への恨みを募らせて生きてきたドンソク。愛嬌たっぷりに男たちの視線をくぎ付けにする海女のヨンオク。会えばケンカばかりしているホシクとイングォン。そのイングォンの娘、ヨンジュは高校生の身でこともあろうにホシクの息子、ヒョンの子どもを宿してしまう。噂の絶えない田舎のご近所付き合いの中で、彼らは次々に問題を引き起こし、大騒ぎをする。都会に暮らす人々から見たら、彼らの濃厚過ぎる人間関係はあまりにも煩わしく、居たたまれないものに映るだろう。彼らに扮する俳優たちのまるでその人物そのもののような迫真の演技によって、それはさらに輝きを帯びる。
登場人物たちが白熱した舌戦を繰り広げる『私たちのブルース』に比べ、小説『別れを告げない』はどうだろう。寡黙だろうか。小説という音のない世界であることを差し引いても、決してそうとは言えないだろう。むしろ、文字によってダイレクトに飛び込んでくる言葉は雄弁過ぎてめまいを覚えるほどだ。雪をかき分けて進む主人公の吐く白い息も、停電した真っ暗な部屋の中で悪寒に耐え、繰り返される夢とうつつも、インコのコトバも、読む者に『私たちのブルース』以上の熱量で語りかけてくる。セリフとして「聞く」以上に、文字を「読む」という行為が大きな力を持っていると感じさせる。面と向かってしゃべるなら、言い間違いや聞き間違いもあるだろう。だが文字になったものに、読み間違いはごくわずかだろう。もちろん意味の取り違いはあったとしても。語られる済州島の惨劇の様子は主人公キョンハの友人、インソンの母が集めた資料の束のなかにぎっしりと詰まっている。もう見たくない、そう思いながらキョンハは震える手でページをめくる。
済州島に暮らすウニたちは、互いに噂の標的になったり、いがみ合ったかと思うと助け合ったりといった、はたから見ればなんでもないようないざこざを繰り返す。子どもの妊娠であたふたするホシクとイングォンや、嘘つき呼ばわりされて仲間外れにされた海女のヨンオクは、きちんと本音を告げることで、やがてわだかまりが解消され、信頼を勝ち取っていく。怒鳴り合ったり、涙を流し合ったりしながら、最後は抱き合う彼らを見ていると、言葉にすることがいかに大事かが見えてくる。皆、わかり合おうと、わかってもらおうと必死なのだ。そのために声を張り上げる。そんな彼らの姿は尊く、清々しい。
前回言及したように、ハン・ガンは「私たちはどこまで愛せるのか」と問い続けた。傷と痛みを白日のもとにさらし、愛を深めていくためには、語る言葉が必要だ。そのためにハン・ガンはみずから血を流しながら書き続けるのだろう。済州島に暮らすウニたちが、互いを罵り合いながら愛を深めていくのも、根底には同じ問いかけがあると言っていいはずだ。なかなか本音を口にできない日本人からすると、傷つくとわかっていながら言葉にすることで絆を深めていくという姿勢は、簡単に真似できるものではない。それでも『私たちのブルース』や『別れを告げない』に共感するのは、やはり私たちのなかにも痛みを伴っても言葉にしたいという強い思いがあるからではないだろうか。 |