天智天皇は自身が造った都の近江国で亡くなった。中大兄皇子は権力を専横した蘇我入鹿とその一族を討ち権力を握った。中大兄皇子は、母親の斉明天皇の遺志に従い、新羅と唐の連合軍の攻撃を受けていた百済に援軍を派兵した。だが、彼は遺志を遂げられず、韓半島西海岸の白村江の河口で数万人の倭国軍を失う。
韓半島から撤退後、新羅と唐の連合軍の攻撃に備え、都を飛鳥から近江国へ移した。
天智天皇の物語では子女問題が注目を浴びる。皇后の倭姫王(やまとひめのおおきみ)には実子がいなかった。嬪の一人の蘇我遠智娘(そがのおちのいらつめ)との間に1男2女がいたが、皇位継承第1位の息子である建皇子(たけるのみこ)は幼くして亡くなった。2人の皇女、大田皇女(おおたのひめみこ)と鸕野讃良皇女(うののさららのひめみこ)は、弟の大海人皇子に嫁がせた。別の嬪から得た明日香皇女(あすかのひめみこ)も大海人皇子に嫁がせた。兄である天皇の娘を3人も抱えた大海人皇子は皇位を継承する準備ができていた。
天智天皇は、自らの死を予見していたようだ。671年1月、伊賀采女宅娘が産んだ大友皇子を国政の最高責任者の太政大臣に任命した。ところが、後継者となった大友皇子は、天皇家の勢力関係からは、異母姉の大田皇女や鸕野讃良皇女に比べると侘びしいものだった。
天智天皇がこれを案じないはずはない。そこで弟の大海人を吉野へ事実上、幽閉した。この決定の裏には、大海人が百済への出兵に消極的だった記憶もあったはずである。天智天皇は671年9月に発病し12月3日に崩御した。享年46歳だった。
このとき、九つの涙歌が作られた。万葉集に収録された順に解読し、当時の倭国の人々が天皇の死をどう受け止めており、また涙歌がどのように作られたかを見てみよう。まず、「147番歌」である。
天 原 振放見者
大王 乃 御
壽者 長久
天足
あめ(天)の原へと馳せ旅立っておられるのが見えるわ。
大王様が行幸される。
寿命が長生きせねばならなかったのに。
天に向かって走っておられる。
これまでの解き方は次の通り。
天の原振り放け見れば大君の御寿は長く天足らしたり(天空を振り仰いで見れば、大君の御命は長く広く天に満ち足りていらっしゃる)
郷歌制作法で解読したものと比べると全然違う。研究者たちは万葉集を解き間違ってきたのだ。
万葉集の「題詞」によれば、天智天皇が病に倒れたとき倭大后が捧げた歌だという。ところが、郷歌で解いて見たら天皇の死後の作品だった。題詞が間違ったのだ。これは万葉集の研究において重大な意味を持つ。題詞を絶対視してはならないことが分かるのだ。倭大后は子孫を残せなかった。
神も勝てなかった君(天智天皇への涙歌9首)
<つづく> |