今から1600年も昔の5世紀、日本列島にまだ統一国家もなかった時代に5人の王(酋長と言ってもいいかも)が列島だけでなく、韓半島の高句麗以南の土地を軍事支配していると主張、中国の宋王朝(南朝)に朝貢し爵位を求めたという記録がある。朝貢の記録を大切に保管してきた中華民族のこと、これは歴史的事実であろう。
宋王朝は朝貢してくる周辺の勢力に対して気前よく爵位を与えた。倭王がまず申請したのは『倭・百済・新羅・任那・秦韓・慕韓六国軍事・安東大将軍』という壮大なものであったが、時に自国を除く軍事権は認められず、百済に対する主張も却下され続けた。このため加耶を加えるなど、数は力とばかり六国の軍事支配にこだわった。また、これまた執着してきた安東大将軍(極東地区担当の最高司令官といったところ)の官号を得たのだが、これは宋王朝滅亡の前年の駆け込みであった。
これがおよそ70年にわたる朝貢外交の概要である。宋王朝は新参の倭には結構シビアだったようだが、とにかく韓半島南部の支配は認められている。
百済の軍事支配が認められなかったのは倭以前に朝貢していたため。一方、新羅が認められたのは不思議であるが、宋とは国交がなかったためであろう。そもそも現代の歴史学では「この時期、百済はもちろん新羅は明白に独立国であり、加耶の小国家群も倭の支配下にあったわけではない」というのが大勢。周辺諸国に対して気前よく爵位を与えた中華思想的殿様対応はわかるが、草莽の時代から間もない倭が韓半島南部を支配していると主張しているのが不思議でたまらない。
倭の五王って、いったいどこの誰だ?
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倭の五王は大阪の難波を拠点にしていた河内王朝で、最初の「讃」は応神か仁徳か履中のいずれかと比定されている。当時、福井の越、岡山の吉備や北九州の筑紫など各地に勢力があり、河内王朝は大勢力ではあったが直接支配したのはせいぜい河内・大和・山城・播磨・近江くらいの範囲であり、”附庸”といわれる同盟国はあったであろうが、4~5世紀にはるか韓半島まで遠征するのは難事業であっただろう。
それなら五王がどこの勢力であったかを推し量るうえで興味深い話がある。韓国では子供でも知っているという、新羅の智将、朴堤上の逸話が推理小説のようで面白い。
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5世紀初め(倭の五王の讃の時代)新羅の実聖王は二人の王子、宝海を高句麗、美海(未斯欣)を倭に質として友好を深めようとしたのだが、それぞれ冷遇され、長い間苦難の生活を強いられることになる。朴堤上は二人を救出すべく、まず弁説巧みに高句麗の宝海を連れ帰ることに成功。続いて決死の覚悟で列島に渡り、魚や鴨を採ったりする舟遊びを装い、そのまま半島まで脱出させることに成功。自らはアリバイ工作のため宮殿内にとどまったため捕まり、火あぶりになったという犠牲的英雄談だ。同時期に百済から来ていた質は倭兵の護衛のもと本国に帰ることができたが、新羅から来た質は、こうしないと帰れなかったということだ。美海は402年に来朝、帰国できたのは418年と伝わる。
この話を分析するとこうなる。
《朴堤上は夕方からの舟遊びを装って美海を船で逃がす。夜~早朝気付いた倭兵が追うが、海霧に阻まれ発見することが出来ない。このため夜から朝までに追手の手の届かない所まで逃れることができ、事が成就したのだが、これがもしも大阪湾で行われていたらどうなったのか。瀬戸内海を延々と航海していたら一体何日かかるのか。どこかの河内王権の同盟国に捕まる可能性も強い。博多あたりから一晩で韓半島まで着くとは思えないが、追手から逃れられる可能性は高い》
というわけで、美海が質となっていたのは北九州。舞台は博多湾から玄海灘でないと成り立たないという推理である。つまり倭の五王は河内王朝ではなく、筑紫の九州王朝だった可能性が非常に高いという説だ。
この時代より後になるが唐の時代の倭(日本)について旧唐書と新唐書に記載がある。旧唐書では「古い話だが、日本は小国であったが、その後倭国の地を併合した」。新唐書ではまったく逆の「日本は小国だったので倭に併合され、倭が日本と言う国名を奪った」とある。唐は白村江で倭と戦い、遣唐使も沢山むかえ、阿部仲麻呂が王朝で活躍したのに、なぜこうも違うのかと釈然としないし、どっちが畿内の王朝か九州王朝かはわからないが、その昔の日本列島には統一前に二つの王朝があったことだけはわかる。
”倭の五王って、いったいどこの誰”の謎のひとつは解けたように思うが、なぜ韓半島南部の支配を主張したかの理由は次号で。
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