「浦」とは、あの世へ向かう船が着く渡し場だ。古代人は死んだ後、霊魂が船に乗って広い河を渡りあの世にいくという来世観を持っていた。想像の入江だ。ここで留意すべき点がある。当時、実際に鞆の浦という地名があった可能性もある。そうであれば、実際の入江・浦の名前が「固有名詞法」として使われたと考えなければならない。固有名詞法とは、郷歌と関連した固有名詞の意味を漢字で解けば、作品の制作意図と繋がるという法則だ。実際、地名があってもなくても解読の結果は同じだ。鞆の浦が実際にあったのかどうかは、地域の事情に詳しい方々が教えて欲しい。
このように2番目の句を解いてみたら、古代の韓半島と日本列島の葬儀文化が現れた。現代の日本の伝統的な葬儀文化と比較してみたいが、私自身が日本の葬儀がよく分からないため残念でならない。
私は、この2番目の句節からタイムマシンに乗り西紀700年頃の古代へ没入した。
3番目の句にいってみよう。
天 木 香 樹者
「天の下の世の中の人々は、小さな木が大きく繁る木へと育てなければならないさ」と解読される。
「天」は天の下だ。女人が向かうあの世と相対する概念だ。
「木」は「棺+木」の二つの意味で使われる多機能文字である。
「香」は死者の口に米を入れる伝統的な葬儀の儀式だ。甲骨文字の「香」の字を見れば、口の上に稲が描かれている。死者の口に米を入れてやる風習は、韓半島では今も残っている。あの世に行く途中で出会った人々にご飯を分けてあげながら、(あの世に)一緒に行きなさいという趣旨のことだった。
万葉集を研究してみると、古代の人々は、あの世への道をあくまでも大勢で集まっていこうとしていたことが分かる。658年、斉明天皇が孫の建王(たけるのみこ・中大兄皇子の長男)が8歳の幼さで亡くなった時、「あの世に行く途中で倭人たちに会ったらご飯を食べさせ、説得して必ず一緒にあの世への船に乗りにいきなさい」と言い諭しながら、米粒を食べさせながらすすり泣いていた(日本書紀 斉明天皇条)。
「樹」は大きな木だ。「木」と「樹」を対比させて配列している。「木」は(死んだ)女人が残した幼い男の子だ。「樹」は森の中の大きな木だ。甲骨文字で「樹」は木を育てる様子だ。つまり、女人が残した木を大きな木によく育てるという意味だ。
この3番目の句が本作品の核心的な部分だ。あの世へ行く女人に、子どもはよく育てるから安心して行きなさいという男の約束だ。この子は後日、どうなったのだろうか。
では、4番目の句だ。
常 世 有 跡 見之
「人々は常に、この世に残っているあなたの名残を見て見習わなければならないね」と解読するのが妥当だ。
「見」を「見て見習わなければならない」と解くまでには、万葉集全体にわたる理解が必要だ。もう少し統一日報のこの連載を読み続けてほしい。
冬の旅びと 万葉集446番歌<続く> |