山片蟠桃著『夢之代』は、「日本へ文字が渡ってきたのは応神天皇の時代であって、それからあとのことは、事実がはっきりしている。それ以前のことは、口で伝えた伝説であって、そこから事実をとりだすことはできない。中国の三皇のこと、日本の神代のことは、そのままにして論じないでよい」と述べ、”存して論ぜず”の学術を説いたことで知られている。
神話を事実として受けとめる本居宣長の思想に便乗し、それを強制した戦前の皇国史観とは全く相反する山片蟠桃の主張は、戦後に主流となった津田左右吉の歴史観の先駆をなすものであったと評価されているが、津田左右吉は、山片蟠桃の後塵を拝すと見られるのを嫌い、つとめて無視し、他の学者に至っては、不敬罪を恐れ山片蟠桃の歴史観に近づこうとしなかったということだ。
江戸時代の上田秋成も、『胆大小心録』という著書において、「神武以後といっても曖昧なもので、14代15代からは採用できるが、神功の三韓退治は妄説が多い」と断定する。最近の斯会でも応神以前は虚構とし、新羅征伐も虚構と主張している。
日本の古代史が虚構であると説かれているが、斯会の本流は本居宣長の史観を受け継ぐ形で、『記・紀』を絶対視する主張が定説だ。”存して論ぜず”ではなく、存するのなら大いに論じ、定説を再検証する必要があると思う。そういう姿勢の中から真実の歴史が見えてくると思われるからだ。
沸流百済は自らの存在を黒子にして日本列島の主人公に収まった
『日本書紀』は、日本列島を中心にして出来上がっている史書で、天孫が天上から日向の高千穂峯に降臨するのは、天皇家は日本列島に自生のもので、異国とは関係がないという主張だという。それは、白村江での敗北以後、九州が国防の第一線となって、未開拓の南九州を確保する必要上、天皇家と隼人とを同祖とした。したがって、同じ日本民族として主張するために作られた話なのであって、起源が新しい。仲哀・神功は、白村江の敗戦が作り出した人物としている。
津田左右吉著『神代史の研究』は、神話そのものが天皇家の日本支配の正当性を裏づけるために創作されたものに過ぎないと唱えた。また、初代神武から第14代仲哀までの歴代天皇の実在が怪しいと指摘した。皇国史観論者は猛反発し、悪魔的虚無主義というレッテルを貼り、昭和15年(1940)に津田左右吉の著作は発禁処分を受けた。裁判になり、有罪判決を受けた。
戦後の歴史学会は、その反動ともいうべき状況で、津田左右吉の史観が大いに支持されるようになり、『記・紀』に記されたあやふやで神秘的な記述の多くは、創作・物語・お伽話・迷信などとして切り捨てられた。過去の日本では長きにわたり、文字(漢字)がなく、文化程度も低いという認識が席巻したのだ。 |