20回の連載を超えた「金永會の万葉集イヤギ」に対し、本紙に次のような感想・コメントが寄せられている。批判から肯定まで、バリエーションも豊かだ。
本紙に「ドラマと文学で探る韓国」を連載中の青嶋昌子氏は、「学生時代、『万葉集』のさまざまな歌に当時の人々の大らかさが見て取れるような気がし、清々しい心地になった。そんなことを思い出しながら金先生の1番歌の解説を読み、これまでの認識を覆すような内容にハッとさせられた。ただ、漢字の解釈は小気味よく、なるほどと思った。引き続き、金先生の新たな解釈で万葉集を読み直してみたい」としている。
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韓国で教壇に立つ平井敏晴・漢陽女子大学助教授は、「たいへん有意義な試みであり、斬新な視点と思う。『万葉集』が編纂された頃は、まだ神話的な世界観の時代。したがって『万葉集』も神話的文章で書かれているはずで、そうした文章に隠された、まだ理解されていないメッセージはあるに違いない。一方で、上代(万葉)の言葉を郷歌の文法で読み解く理論的根拠については、さらに追究する必要があると考える」と話す。
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広島で『万葉集』を愛読する民間団体「鞆の浦万葉の会」の戸田和吉代表は、「『万葉集』を取り上げていただいていることに感謝している。ただ、金先生の理解をそのまま受け入れられる訳ではない。郷歌そのものも、漢詩に近いのかなという思いに駆られている。古代日本では、漢字の音を使って日本語を表記した。万葉仮名と呼ばれ、漢字に意味合いを持たせない。それを表意的な面から読もうとすれば、通用させられない歌も出てくると思う。金先生なら、『十六(しし)』『神楽声(ささ)』といった語をどう解釈するのだろうか。一方で、日本最古の漢詩集『懐風藻』は表意文字としての特性を生かして読解されている。万葉の歌は、和語を漢字で書き表すために工夫された表記法であったと考えている」と述べた。
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本紙に「東アジア文字考」を連載中の水間一太朗さんは、「金先生の研究は、漢字という言語が『中国のものではなく、東アジアの共通言語として発展したもの』という前提から出発している。これに私は全く同意する。当時の東アジア諸国では、漢字は外国語ではなく、自国語の表記方法の一つとして完全に使いこなしていた。ただ、『万葉集』が4516首、対して現存する郷歌が新羅、高麗を合わせても25首であり、時代もより新しいものが多いことを考えると”郷歌の法則で読み解く”という表現には無理があるかもしれないが、画期的かつ本質的な研究であることは間違いない。金先生の研究の出発点となった、『三国遺事』「願往生歌」には確かに「悩叱古音」に対して「郷言云報言也」とある。現代語に訳せば「国の言葉では、報告の言葉をいう」となろうか。この一文から出発し、東国大学校という仏教を研鑽する土壌の中で、啓示の如く与えられたものに違いない。今後の連載に大いに期待したい」と語った。 |