金時鐘と言えば「猪飼野詩集」である。『季刊三千里』誌の創刊号で金時鐘の「猪飼野詩集」にはじめて出会った時、ほとんど理解出来なかった。今ほど、在日史を知らなかったこともある。だが、当時は「帰化人」を否定する金達寿の周辺にいたから、在日を渡来人と捉えていた。朝鮮半島から渡来してきた人々とみていた。
むろん、朴慶植の「強制連行」説は限定されるものとして捉えていた。故郷に海軍飛行場があり、その建設に多くの朝鮮人が動員されていた。それらの人々が「強制連行」されてきたとは考えられなかった。それに「強制連行」説を提唱した朴慶植本人に、渋谷の喫茶店ピーコックの2階で尋ねる機会もあった。「私は強制連行されてきた朝鮮人でありません」と、朴慶植は答えた。
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朴慶植が卒業した小学校は、私の田舎のすぐ近所だった。その時は故郷の話で盛り上がったものである。在日の社会を形成した人々には様々な「渡日史」がある。
金時鐘の場合は、1949年6月に日本へ密入国して来た。昭和20年代は韓国からの密入国者が多かった。金時鐘自身は、軍事政権の強圧から逃れてきた難民だと述べている。韓国軍事政権の弾圧のなかの政治的亡命を装っても、日本へ密入国して来て半年が経過した50年1月、日本共産党に入党しているから、難民とは言えない。その素早い政治的な身のこなしから、政治的亡命にも見えない。客観的には、政治的密命を帯びての密入国者だと見られるであろう。
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重ねて述べるが、渋谷のNHK関連施設で南労党の指導者だった朴甲東に対し、済州島からの密入国者について質問している。それは済州島から党の指示で日本へ密入国したという在日の「自伝」を読んでいたからである。朴甲東は即座に「あれは自分が指示した」と答えた。朝鮮革命に必要な資金調達のために派遣したと述べた。むろん、反革命の動きが出た場合に備えてでもあったらしい。
だから、金時鐘の日本への潜入は金達寿や張斗植たちの場合と異なる。金達寿が「帰化」でなく「渡来」にこだわる理由の一つに南労党との関係があった。金達寿は南労党指令で、在日が日共の武装闘争を支えたことを批判していた。在日が前面に立った武装闘争が、差別の歴史をつくったのだと述べていた。
金達寿の金時鐘への厳しい視線は、済州島から渡日してすぐに日共の武装闘争に従ったことにあった。
『季刊三千里』誌の創刊号から4号にかけて掲載された「猪飼野詩集」にそのような点がよく表れている。
それは、差別に呻吟し低賃金に喘ぐ在日社会をうたったものとされている。ただし、3号には「万景峰号」が出てくる。差別と低賃金に喘ぐ猪飼野からの脱出をうたっているようだ。
たしか金日成将軍を讃える歌詞の一部分も出てくる。紛れもなく、75年の当時も金時鐘は革命家であったのだ。
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そして『季刊三千里』誌の創刊号に「猪飼野」についての説明が記載されていた。大阪や在日以外では猪飼野について馴染のない地名ということで簡単に説明したのだろう。
「猪飼野」は、「大阪市生野区の一部を占めていたが、73年2月1日を契機にしてなくなった朝鮮人密集地の、かつての町名」とあり、さらに続けて「大正末期、百済川を改修して新平野川をつくったおり、この工事のため集められた朝鮮人がそのまま居ついてできた町」と説明が補強されている。金時鐘は在日の代名詞のような町名をその詩集の題名にしている。
だが、その町でかつて革命運動に従事した自分の内面はうたっていない。金達寿の指摘した差別を作ったことも、同様にうたわれていない。
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