ワシントンの一角は、朴正煕大統領の性格から、韓半島で米国が望まない戦争が起こる可能性もあるということを誇張した。米国人のこのような主張はあまりにも理不尽な主張だ。米国は自国の兵士一人が死んでもそれに対して報復をする国だ。
ところが、朴正煕大統領が、金日成が送った特殊部隊が大統領府を襲撃(1968年1月21日の「1・21事態」)し、国立墓地参拝の大統領暗殺を狙い(70年6月)、板門店で視界確保のための作業をしていた国連軍将校が北側によって斧で殺害された事件(76年8月、板門店斧蛮行事件)などについて、主権国家の大統領の立場での自衛、反撃権行使に言及したことを問題とするのだった。
繰り返される挑発を抑制するためにも報復、対応措置は必要なものである。しかも、朴正煕大統領はこのような心境を私的な場で言及したのに、米国はこれを危険視したのだ。韓半島で望ましくない戦争に米国が関与することを懸念するとしても、これは主権国家に対する態度でない。
もちろん、冷徹な現実主義者の朴大統領は、自主国防の理想だけにこだわらなかった。韓国の国力の限界と韓米同盟の重要さをよく知っているので、最終的には現実的な判断をすることになる。
朴大統領時代の末期にはすでに世界は激変していた。米国の盟邦だったイランでイスラム革命が起きた。パーレビ王が亡命(79年1月16日)、イスラム共和国が誕生(79年4月1日)した。韓国の核武装はあらゆる手段を動員して阻止した米国は、イスラエルが南アフリカ共和国の近海で非公開の中性子弾実験(79年9月)をしたのは黙認した。
朴大統領は核武装を放棄する代わりに、韓国が原子力強国になる土台を作った。そして米国がベトナムなどのように勝手に韓国を放棄できないように韓米連合軍司令部を創設した。米国は、韓米連合司令部体制で韓国軍に対する作戦統制権を確実に行使することが条件だった。
朴正煕大統領の最優先目標は、当然、国民を貧困から解放し、金日成との体制競争で勝利することだった。同時に、大統領の責務として、韓国が強大国政治の犠牲にならないようにすることだった。長期執権のための措置として国内外から非難された「10月維新」が大韓民国の自主国防、安保のための避けられない措置であることを理解、支持する国民も少なくなかったが、強力な抵抗勢力が大きくなりつつあった。
韓国社会は、米国に縋って権力を獲得し、安全保障を米国に依存できると考える勢力と、自主国防を追求する勢力の間の葛藤が深まるしかなかった。いわゆる政治的自由、「民主化」を要求する金泳三氏や金大中など民間政治家たちは、米国の影響力に頼って朴大統領に対抗し、権力を獲得しようとした。
米国は外勢(米国)に依存する彼ら民間政治家たちを朴正煕大統領牽制に利用した。駐韓米国大使館と情報機関などは、ワシントンの注文に従い朴正煕大統領を牽制し苦しめた。
朴大統領は、米国を韓国国内政治に引き込む主体性のない政治家たちと、彼らに扇動される世間知らずたちを当然軽蔑した。韓国に対する支配権を離すまいというワシントンの諸勢力は、政治的、手続き的な民主化を掲げ朴正熙政権の抑制、除去に乗り出した。
朴正煕の維新・重化学工業化路線の意味とその成果に対する専門家たちの評価が行われるのは、朴大統領の死後30年余りが流れた後だ。
(つづく) |