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2023年02月21日 11:28
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新解釈・日本書紀 応神<第72回>
伴野 麓

(90)渡来人は倭地の氏族と融合
応神14年の春、百済王が縫衣工女(きぬぬいおみな)を奉った。真毛津(まけつ)といい、これが来目衣縫(くめのきぬぬい)の先祖だ。来目の語は、古事記には見当たらず、久米と表記されている。また、久味、久末とも記され、喜田貞吉は「久米は玖磨にして、久米部は玖磨人、すなわち肥人(コマビト)ならん」と説いている。
金沢庄三郎は、天櫛津大来目(あめくしつおおくめ)の櫛=クシはコソに通じる朝鮮古代語で、日本書紀の「古沙山(こさむれ)」や「居曽山(こそむれ)」と同系の地名だとする。入れ墨は阿曇一族に特徴的な風習だが、有明海沿岸にその出自をもつ来目一族にも同じ習慣があった。
来目部は軍事刑罰をつかさどった部民とされるが、来目部のほかに、佐伯部や隼人なども参画して、天皇護衛の任にあたった。来目部が歌う歌の中に、原文で「弥都弥都志(みつみつし) 倶梅能固邏餓(くめのこらが)」との一節がある。「弥都弥都志」の「みつ」は、「御稜威(みいつ)。神や天皇の威力」と注釈がある。古代韓語の吏読表記で解釈すると、弥都は弥鄒忽(ミチュホル)を指し、「倶梅」はクマが転訛したもので、貊族を表すという。「弥鄒忽の貊族は怒って攻撃した」という意味になる。弥鄒忽は沸流百済の初期の都邑地(みやこ)だ。
百済王が奉った縫衣工女の真毛津は、来目一族に迎えられ彼らのために衣服を作ったのだろう。応神朝に渡来した技術者らは、倭地の古い氏族と融合していったのだ。
応神39年2月に渡来した直支王の妹の新斉都姫(しせつひめ)が連れてきた7人の婦女も、倭地の有力氏族に溶け込んだと思われる。
駒ヶ谷という地名の由来について、聖徳太子が寺地を探すために回った折、駒を止めたことから名付けられたというが、実際は、高麗人たちが定着したことから高麗ヶ谷村と呼んだのが後世、駒ヶ谷村と書くようになったということだ。その地域には、真銅とか金銅といった姓が多く、応神朝の頃に、高句麗から金属関係の技術集団が渡来して定着したなごりであろうと説明されている。というよりも、百済と高句麗は扶余から出た同根であり、百済に住む高句麗系の氏族であったと思われる。
応神紀には新羅人の渡来と記し、天日槍も渡来と書かれている。その渡来は、マヰワタリキツと訓まれていて、帰化とは書かれていないが、すべからく帰化のことと解釈されている。帰の字は、シタガフ・オモムク・マツロフと訓まれる。
百済が朽飯(くちい・くだし)という訓み方に転訛している地もあり、その地は越前(福井県)の武生近くで、百済人の技術者らが定住した地だという。
段煕麟著『日本に生きた渡来人たち』は、「百済の太祖である都慕王(つちおう)は、日神が霊をおろして扶余の地をおおって開国したとき、天帝が天符印(てんぷいん/神の威力と霊権を表す神聖な霊印)をさずけ、諸韓をあわせてその王とした」と記す。都慕王は高句麗の始祖である朱蒙を指すというが、百済の始祖である沸流と温祚の義父でもある。天符印は檀君朝鮮の王璽(おうじ)であり、百済の始源を扶余国としている。

2023-02-22 6面
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