李善実は、韓国済州島出身で弟が南労党員として殺されたことに恨みを抱き、1950年の春に北へ逃れて工作員を志願したと知られる。
李善実は日本に潜入してから2カ月も経たないうちに、同居する「土台人」の保証で自分が韓国の馬山から密航してきた申順女だと、日本当局に自首した。日本当局は、韓国馬山から密航してきたという申順女が本当に韓国から密航した人物なのかを韓国当局に問い合わせしなかった。正常であれば当然、韓国当局に照会しなければならないが、もし照会したら、すぐに正体がばれたはずで、そうなったら平壌側は、日本を迂回する工作を多少は自制したかもしれない。
韓国人の申順女が実存人物であるかを韓国側に照会しなかった日本当局の行動は、韓半島情勢や共産全体主義との冷戦に対する無知が招いたものでもあるが、当時、日本当局は、他国の工作員(スパイ)を検挙しても処罰しなかった。これは法的な不備もあるが、日本に不法潜入した他国のスパイの人権も尊重するのが先進国という勘違いと油断からの側面もあった。
特に日本社会には、大韓民国の自由民主体制を保障する唯一の法的装置である国家保安法を、独裁・警察国家の暴圧体制のための悪法と見る風潮があった。もちろんこれは、平壌側と共産主義陣営が日本社会を洗脳した結果だ。
いずれにせよ、この申順女として成りすました潜入工作員の李善実は、日本当局に自首してから1年後、当局から特別在留許可を受ける。ところが申順女は、日・北が野合した「北送工作」で北送された人物である。日本当局は、申順女が北送者であることを知らなかったようだ。それに、当時、本物の申順女の兄弟たちが日本に住んでいた。要するに、本物の申順女の日本国内の血縁たちも、北韓工作員の「土台人」となったのだ。
繰り返すが、この潜入工作員たちのための「土台人」を獲得する過程には、朝鮮労働党の日本支部である朝総連組織が動員され、直接的、間接的に介入することになる。反国家団体である朝鮮労働党の在日支部だから当然、反国家団体として革命事業・大韓民国赤化工作が最優先の課題である。その別動隊である「韓統連」も反国家団体だ。朝総連は革命事業政治思想戦争のために組織された。表向きのあらゆる活動は、革命活動を隠蔽し正当化するための隠れ蓑に過ぎない。
朝総連は、彼らに対する指導体系が、日本共産党から公式に朝鮮労働党に移管された後、平壌の指令と厳格な監督のもと、多くの思想学習体系を運営してきた。
「学習組」と呼ばれた朝鮮労働党の秘密党員たちは、やがて平壌に召喚され、学習と訓練を受けることになった。その中でも日本国内で精鋭工作員として選抜された者たちは北に行って特殊訓練を履修した。
日本当局もこの事情を概ね把握していたが、この深刻な状況に関する情報が必要なところに共有されず、平壤側の直接的な攻撃目標が日本ではなく、大韓民国転覆だった点などから、結果的に朝鮮労働党の韓国転覆工作を放置した。
日本で合法的身分を獲得した李善実は、60歳を超え、1978年に「母国訪問団」として韓国を訪問した。李善実は帰日後、日本から工作船で平壌に帰還し、79年の夏、再び日本に潜入した。李善実は80年3月、申順女の身分で韓国に「永住帰国」した。
この初老の女性が、平壌が送った核心政治工作員と分かった人はいなかった。李善実は、莫大な工作金と金洛中を前面に出し「民衆党」を創党した。
(つづく) |