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2022年07月12日 09:55
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新解釈・日本書紀 応神<第50回>
伴野 麓

 (和珥氏の祖の天足彦国押人は尾張氏の祖の世襲足姫の子・つづき)
旧事本紀によれば、世襲足姫のまたの名は日置姫だ。葛城の高尾張邑の日置氏を外祖父として、世襲足姫は孝昭の正妃となり、和珥氏の遠祖となる天足彦国押人と日本足彦国押人(孝安)を生んだ。
日本書紀・神武紀にいう「和珥の坂本の居勢祝」ら土蜘昧も、日置氏のはずで、大和盆地東側の和珥坂本と、西側の葛城高尾張とに、婚姻を通して結ばれた日置氏一族の強い結束があったという。高尾張邑は後の葛城郡日置郷だが、高尾張邑は天香語山命が蟠踞していた地だ。
天足彦国押人の娘である忍鹿比売は五十坂姫とも表記される。五十坂姫は、天神郊祀の霊畤という聖地である鳥見山麓の忍坂邑の土着の豪族・十市県主五十坂彦の娘の五十坂姫である。となれば、天足彦国押人と五十坂彦とは同一人物ということになる。
鳥越憲三郎著『神々と天皇の間』は、和邇氏を孝昭の後裔とする伝承に疑問を持ち、その祖先は、前述の「和珥坂下の居勢祝」だと考えているそうだ。居勢祝は神武の抵抗勢力であった士蜘蛛として滅ぼされた者であるから、その子孫が大和朝廷の大族として崇神前代から長く活動し、絶えず后妃を輩出してきた高貴な家柄になったとは到底思われないという見方もあるが、虚構譚であるといわれる神武を消去すれば、居勢祝を祖先とする説もあながち否定できない。

(65) 和珥氏として自立
記・紀によれば、和珥氏は、孝昭の子・天足彦国押人(天押帯日子)から出たとされるが、富士山本宮浅間大社(静岡県富士宮市)につたわる和爾氏系図によれば、天足彦国押人↓和邇日子押人↓彦国姥津↓伊富都久↓彦国葺↓大口納↓大難波宿禰↓難波根子武振熊↓日触使主―という流れになる。
和邇日子押人彦は、押彦、忍鹿彦などとも表記される。実際には、和邇日子押人彦が和珥(和邇)氏の祖だろう。海部氏系図によれば、天村雲↓天忍人↓天戸目↓建斗米↓建田背とあり、天村雲から始まり建田背の時代に和珥氏として自立した。
建田背(宇那比古)の妹に宇那比姫があって、その宇那比姫が天足彦国押人と結婚して生まれた子が、押姫(忍鹿比売)と和邇日子押人彦だ。和爾坐赤坂比古神社に祀られている和爾神こと赤坂比古は、和邇日子押人彦だろうという。とまれ、和邇日子押人彦の父が天足彦国押人であるなら、天足彦国押人を和珥氏の祖としても間違いではない。
名前に天が付く人物は、韓地系の人(神)格であることを示唆しているという。とすれば、孝昭の子の天足彦国押人も渡海者ということになり、その後裔とされる和珥氏らの諸氏族も渡来系ということになる。新撰姓氏録の天皇の系譜とされる皇別(神武以降に臣籍降下した分流・庶流の氏族の分類)も、韓地系の氏族が多いと指摘されている。
和珥氏族からは、海外交渉や韓地関係で活躍する者が多く出たといい、古くは塩垂津彦や大矢田宿禰、7世紀以降では推古朝の小野妹子、文徳朝の粟田真人などが隋や唐への使節となっている。和珥氏族には猪甘部首のように、阿曇氏同様、入れ墨の習俗をもつものもあったという。

2022-07-13 6面
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