講師:勝股 優
お正月ということで愛蔵している骨董を引っ張り出した。いろいろあるなあ。土偶に黒曜石と青銅の矢尻。仏頭もある。陶器は骨董の定番だ。青銅の鏡も三種。
そんな収集品の中で一番のお気に入りは、ソウルで買った瓦。軒先に置かれる軒丸瓦というものだ。長年古代のものを探していたが、5年ほど前に見つけたのが写真のもの。女性店主が言うところによると開城の廃寺からの発掘品だという。
| 私蔵の軒丸瓦の横の黒い丸瓦は長崎の古刹の土塀の下で拾ったもの。勾玉か大極をデザインした巴文で鎌倉時代あたりから連華文に代わり主流になる | 説明するまでもなく、開城はソウル北西50キロに位置する古都。高麗(918~1392年)の首都であった。商業の中心地として高句麗、百済、新羅にも属した。それらの国々は仏教を厚く保護したというから、立派な寺院が数多くあったことだろう。現在、歴史的建造物が世界遺産となっているが行くことができないし、古代の情報も少なく残念だ。このままでは「伝開城出土」ということで終わりなのだが、あれこれ想像をめぐらすのもまた楽しい。
焼成具合を見ると素焼きで白っぽい。高麗の瓦は現代のように硬く黒くなっていたはずなので、明らかに高麗時代より古い物だと思われる。日本で見る飛鳥~奈良時代の発掘品のような感じである。文様は円や曲線といった単純なものもあるが蓮華文が一般的。その蓮華文も時代が新しくなるとどんどんデザイン化されていくが、私の物は伝統的だが少し新しめか?
エジプトのロータス文様がアレキサンダー大王の東征により中国まで伝わり、仏の座や瓦の文様になる。美しい蓮華文には地球規模の壮大な歴史がある。
飛鳥時代、我が国に寺院を作るために百済から瓦博士が来た。この後も半島三国から技術者が次々とやってきて文様を付ける木型(瓦氾)やデザインを教えたことだろう。干菓子を作るように木型に粘土を詰めて文様を作るのだ。だから同じ木型で作られた物がみつかるという。せめて同じような文様がないかと気にかけているが、茨城県石岡市の国分尼寺の物が似ている。平城宮の瓦も近い。葉(花弁のこと)の数も系統の判別に役立つようだが、日本最古の飛鳥寺は10葉か11葉。法隆寺は8葉か9葉。私の物は8葉。百済は8葉がメインらしい。後の李朝は儒教を国教とし、仏教を弾圧。多くの伝統ある寺院を廃寺にしたが瓦は残ったのだ。
こんな感じで、新年から古代の仏教の歴史のあれこれに思いをはせている。
我が国に仏教が伝わったのは538年説と552年説がある。552年説は日本書紀の記述により、538年説は「元興寺縁起」等によるが、ちょうど200年後の752年に奈良の大仏が開眼している。仏教伝来200周年記念として大仏が作られたとした方がドラマチックなのだが、どうだろう……。
| 私の自慢の仏教コレクションには慶州のエミレーの鐘にある天女の拓本を表装した軸もある | 百済の聖明王が欽明天皇に金銅仏と経典を贈ってきたのが、日本の仏教の始まり。埴輪程度の造形物しか作れなかった倭人はピカピカ光り輝く仏像を見て、さぞ驚き平伏したことだろう。肝心の経典を理解できるようになるのは、ずっと後のことだ。
一方、半島に仏教が伝わったのは高句麗372年、百済384年、新羅が528年といわれる。いずれも公伝の年であって個人的には50~100年は早く伝わっていたに違いない。高句麗の仏教は聖徳太子の教育係が高句麗の慧慈であったように学問を重視。百済にはインド僧・摩羅難陀によって伝えられたから小乗仏教(上座部仏教)的に戒律を重視した。新羅では、100メートルを越える皇龍寺の九重の塔の各層を敵に見立て諸民族からの災いがないよう祈った。最大の敵となる第一層は倭、第二層は中華、六~八層は靺鞨、契丹、女真の北狄勢。国を守る護国(鎮護)を主体とした仏教である。
日本仏教は、半島三国の仏教と遣隋・遣唐学問僧によりもたらされた中国仏教(道教的呪術要素あり)を複合して形成された。複雑なことにそれにシャーマニズムである神道も融合させてしまった。これを神仏習合といい、明治初期まで寺院には神社があった。ちょっと驚くのだが神々は姿を変えて日本に来た仏様だというのだ。例えばスサノヲは薬師如来、天照大神は大日如来、イザナギは釈迦如来、イザナミは千手観音に当てている。こうなると仏教というより日本教と呼んだほうがいい。
韓国の仏教も山や星を祭り、神仏習合的な面もあるが日本のように寺の境内に墓がなく檀家も持たない。もちろん戒名なんて日本だけのものだ。韓国仏教は死者への供養というより現世を生きるための祈祷が主であるらしい。韓国の寺院は古代から現在も学問、修行、悟りを得る聖域のようだ。
【講師紹介】勝股 優(かつまた ゆう)自動車専門誌『ベストカー』の編集長を30年以上務める。前講談社BC社長。古代史万華鏡クラブ会長。奈良を愛してやまない。 |