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2021年10月27日 00:00
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新解釈・日本書紀 応神<第20回>

伴野 麓

 応神が詠んだ歌について、高濬煥著・池田菊敏訳「伽耶を知れば日本の古代史がわかる」に興味深い解説が載っている。古代韓語で解釈すると、「仲違いで諍いになり 女子を殴って如何にせん 痛かったであろう 喧嘩して 女子を殴って如何にせん 思い出してはまた泣くか しかしもう解っていいと思うが 吉備にはなぜ行かねばならぬ、この身が いくら憎いとて 行ってしまうとは」という意味になるという。670年までの日本古代史は、韓国古代史の一部であると説く学者もいることを記憶に留めておきたい。
応神が兄姫を見送った難波津は、古くは難波大津と称し、時には大津とのみ称された。東成、西成2郡の地にわたり、「墨江の津」と「大伴の津」の2つがあった。「難波津に さくや木の花 ふゆごもり 今ははるべと さくやこの花」という王仁の有名な歌は、応神崩御後に大鷦鷯と菟道稚郎子が3年の間、互いに位を譲り合ったことを不思議に思って詠んだ歌だとされている。
同じ年の秋、応神は淡路島に狩りをした。淡路島は難波の西にあり、巌や岸が入りまじり陵や谷が続き、芳草が盛んに茂り、水は勢よく流れ、大鹿や鳧、雁などが沢山いるので、応神は度々遊猟していただろう。
応神は淡路から回って吉備に行き小豆島で遊んだ。5日ほどして葉田の葦守宮に移った時、御友別が来て、その兄弟子孫を料理番として奉仕させた。
応神は、御友別が真心を込めて奉仕する様子を見て喜び、吉備国を割いて御友別の子らに治めさせた。が、実際は御友別一族が蟠踞(根拠地として勢力を振るうこと)し、領地として治めていたと考えられる。

(29)淡路(たんろ)が淡路(あわじ)に

西紀100年頃、日本の九州地域は百済(沸流百済)王室の子弟宗親たちが統治したと周書・百済伝に記されており、第10代崇神から14代仲哀までは沸流百済の淡路洲、つまり植民地であったと見られている。同書はまた、百済は楊子江まで進出したと記している。
梁書にも、沸流百済は晋の時代(214~420年)、遼西と晋平の2郡(今の柳城と北平)を領有したと記されている。22箇所の檐魯(新たに開かれた土地)に、それぞれ王室の子弟宗親たちが任免されたと記録しているのである。このような檐魯制は沸流百済、郡県制は温祚百済の統治体制と見られている。
古事記は冒頭の国生みの条に淡路島のことを「淡道之穂之狭別島」と記している。穂は一般に稲穂のホと解されているのが、帆にも通じる。応神のことを誉田別というが、帆で航海する船をたくさんもっている大王だという意味にもなる。したがって穂之狭別島というのは、船に乗ってやってきた者が上陸して占領した島という意味になり、淡路島を足がかりにして、対岸の河内平野や畿内の各地へ進出していったと考えられる。
大和政権の部民制について歴史学者・津田左右吉は、「部」という語の語源は韓半島南部の百済の言葉であるとし、部民制も百済の制度であったにちがいないとする。部のシステムをもつ応神の権力が倭地に移動してきて、それを実践したということなのだ。

2021-10-27 6面
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