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2021年10月20日 00:00
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新解釈・日本書紀 応神<第19回>

(27)かつての領地を温祚百済に下賜

405年に百済の阿花王が死んだとき、倭王は人質の王子直支(阿花王の長子)に101人の護衛をつけて百済に帰し、王位につけて東韓の地(甘羅城・高難城・爾林城)を返還した。これは、高句麗広開土王により倭地に避難した沸流百済が、かつての領地を温祚百済に下賜したというのが、その内実だ。日本書紀は沸流百済も「百済」と表記し、その百済を温祚百済として記述している。換言すれば、沸流百済は自らの存在を黒子にしたために史上から消えてしまったのだ。
沸流百済の王姓は「真氏」で、温祚百済の外戚であったが、沸流百済が韓半島から日本列島へ移動して以後、温祚百済史から真氏は消えた。これは、温祚百済史において沸流百済史が抹殺されたことを意味する。
沸流百済は大姓八族といって八を聖数とした。そのため倭国を大八洲と称したという。
日本の稲はジャポニカといわれる粳で、中国の揚子江南部にその起源を持つとされている。『地名辞書〈越後国〉』によれば、古志稲について「稲に四種あり、一に曰く出雲稲、二に曰く古志稲、皆出雲大神の作る所なり、三に曰く斎庭、又の名笠狭種、又の名日向種、高千穂の時作る所なり。四に曰く笠縫種、俗に鶴粳、鶴糯という。垂仁帝の時、鶴含みて来る所なり」とある。この記述から、伝播の順は、韓半島↓北九州↓出雲↓越後と推量される。
ところで、応神亡命の翌年(397年)に人質として畿内朝にいた腆支(直支)は、父王(阿萃王=阿花王)の逝去によって帰国し、405年に即位した。即位2年後に温祚百済系の余信を内臣佐平に任命したが、それが百済史に表われた最初の余氏だ。腆支王についで久爾辛王(420~427年)が継承し、そして余氏系の毘有王がはじめて出現(427年)した。
『三国史記〈百済本紀〉』は、腆支が倭から帰国した時に倭兵100人が護送したと記すが、日本書紀・応神紀には腆支太子の帰国と東韓の地を割愛したという記事だけがあって、倭兵の護送は記録されていない。腆支を護送した倭兵100人は、東韓の地に集中していた弁辰勢力だという。そして腆支は、即位するとすぐ辰系の余信を最高の官職に重用した。

(28)帰郷する兄姫を見送る

応神22年の春、誉田(応神)は難波に行幸し、大隅宮に留まった。10日ほど経ったある日、高台に登って遠くを眺めていると、妃の兄姫が西方を眺めて歎いている姿に気づく。兄姫は吉備臣の先祖の御友別の妹だ。
「なんでお前はそんなに歎くのか」
「この頃は父母が恋しく、西の方を遠く眺めましたので、ひとりでに悲しくなったのです。どうかしばらく、父母のもとに帰らせてください」
「親思いのお前が、何年も親を見ないというのは辛いだろう。親に会いたいと願うのは当然だ」
誉田は兄姫の帰郷を許し、淡路の三原の海人部80人を水手として、吉備に送らせた。兄姫は難波の大津から船出し、誉田は高殿から兄姫の船を見送り、歌った。
「淡路島は小豆島と二つ並んでいる。私が立ち寄りたいような島は皆二つ並んでいるのに、私はひとりにされてしまった。誰が遠くへ行き去らせてしまったのだ。吉備の兄姫を折角親しんでいたのに」

2021-10-20 6面
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