伴野 麓・著
(24)韓地の事情に精通していた竹内宿禰
昔脱解は多婆那国の生まれで、その多婆那国は倭国の東北千里の所にあると、『三国史記〈新羅本紀〉』は記す。昔脱解が新羅の大王になったのは西紀57年で、24年間在位し80年に薨じた。その後、昔氏が大王になるのは100年以上後の184年、第9代の伐休尼師今まで待たねばならなかった。その間、昔氏一族が弾圧され、倭地に逃れた可能性も否定できない。
新羅の第4代大王・昔脱解は、少彦名と同人だという説がある。あるいは武内宿禰を韓語で解釈すると、スクネは「昔国」で「昔国の高貴な家」という意味になることから、武内宿禰を昔脱解の後裔とする説もある。どこか眉唾物のようにも感じるが、昔脱解は倭人の瓠公を大輔(新羅の官職名)に任じたとあり、倭地と関係が深かったことは確かなようだ。瓠公という人は、その族姓がつまびらかでないが、もと倭人で、はじめ瓠を腰につって海を渡って来たために瓠公と称したとある。
日本書紀〈神功紀〉に、「武内宿禰に議らせるがよい。千熊長彦を使者とすれば願いが叶うだろう」とある。千熊長彦が新羅に渡って、(新羅が)百済の献上物を汚し乱したことを責めたというものだ。これは、
武内宿禰が韓地の事情に精通していたことを暗喩する。武内宿禰の後裔である蘇我氏が、渡来人の技術や先進文化によって、その権力を拡充したのと同じ構図だ。裏返せば、韓人たちの動き次第で倭国の政権がゆれ動いたことを物語る。
使者の千熊長彦について日本書紀の註は、「千熊長彦は、はっきりその氏の名がわからない人物である。一説によれば、武蔵国の人で、いまは額田部槻本首らの始祖であるという。『百済記』に、職麻那那加比跪というのは、おそらくこの人であろう」と記している。つまり千熊長彦は、百済人・職麻那那加比跪の日本名なのである。
(25)容貌が瓜二つの真根子が身代わりに
武内宿禰が監察の仕事で筑紫に行っている間に、弟の甘美内宿禰が「(武内宿禰は)筑紫を割いて取り三韓を自分に従わせたら天下を取ることができる」という野心をもっていると讒言した。応神はそれを聞いて、武内宿禰を殺すよう命じたが、容貌が武内宿禰と瓜二つの真根子という人物が身代わりになり、(武内宿禰は)難を避けることができた。
武内宿禰は、筑紫から舟で南海を回り紀伊の港へ着くと朝廷へ出向き、「二心はない。忠心をもって君に仕えている」と弁明。応神は、探湯(神に祈誓して手を熱湯に入れ、ただれた者を邪とする)で、兄弟の正邪を決するように命じた。このとき兄の武内宿禰が勝った。甘美内宿禰は紀直らの先祖に下賜されて、一命をとりとめた。その後、武内宿禰の子と応神の子が名前を交換し、それぞれ木莵宿禰と大鷦鶺と命名された。
武内宿禰が出向いた筑紫の地は、現在の大宰府あたりとされる。大宰府は往昔、西海の都会ということで西都と称され、博多津を門戸とし、怡土、三野、大野に城を置いて警備されたという。筑後国の高良神社は、『延喜式』に載る三井郡高良玉垂命神社のことであり、高良玉垂は、安曇連の祖の綿津見神だという。一説に、玉垂は武内宿禰とともに応神を助けたと伝える。 |