朴大統領の西ドイツ訪問(1964年12月)を契機に韓国の対外指向戦略は確固たるものになるが当然、この対外志向戦略は、国内資源の動員で可能なものではない。国内的な態勢はすでに朴大統領の全面信任の下、張基栄副総理と朴忠勳商工部長官が具体的な輸出戦略を構築していた。
張基栄は就任(64年5月)してから、直ちに市場自由化政策を推進した。米国とIMFの勧告を受け入れ、固定為替制度を変動為替制に変え、金利を実現化し輸入も果敢に開放するなどの措置を取った。これは輸出主導戦略の骨組みだった。その年の末、64年11月30日、韓国は輸出1億ドルを達成した。政府はこの日を「輸出の日」と制定、記念日にした。12月5日、「第1回輸出の日」記念式が行われた。
問題は、朴大統領が革命直後から苦心してきた産業化のための資金調達だった。朴正煕の結論は、安保と経済を同時に解決する開放的国際体制に編入するためには、同盟の米国を積極的に活用することだった。朴大統領は、国際情勢と米国の戦略的立場を正確に理解していた。朴正煕大統領は、米国が当面したベトナム戦争と、韓国に望んでいる韓日国交正常化を推進することにした。
韓国軍をベトナム戦争に派兵することは米国の要求したものではない。すでに触れた通り、朴大統領が先に米国に提案したものだ。朴大統領が軍事革命6カ月後の61年11月14日、訪米のとき、ケネディ大統領に、韓国軍のベトナム戦争派兵を提案したのだ。ただ、米国は、外国軍のベトナム派兵の必要性を認めていなかった。
朴大統領は、韓日交渉とベトナム戦派兵を並行して推進した。ベトナム戦派兵は、韓日交渉とは比較もできない大きな課題だった。朴大統領としてもベトナム戦派兵の決断は韓国の命運を打開するための大きな賭けだった。朴大統領は、米国が結局、ベトナム戦争に参戦すると判断した。その場合、在韓米軍がベトナムに動員されるのは不可避で、これは韓国には休戦線防衛の弱化という致命的な安保負担と見たのだ。
いずれにせよ、朴大統領がジョン・ケネディ大統領に韓国軍の派兵意向を伝えた半年後の62年5月12日、派兵に備え大領級で構成されたベトナム軍事視察団を送った。視察団はベトナムの状況と派兵の際はどのような措置が必要かなどを報告した。彼らは帰国報告書を通じて、テコンド教官、移動外科病院、建設団の順に派兵する案を報告した。
朴大統領は、ベトナム派兵や韓日会談のような重大事を決定する際に、十分な議論をするようにした。63年8月、鎮海の大統領別荘に国軍首脳部を呼んで派兵案を議論した。革命はしたものの、暗鬱な現実を打開する方策として派兵の必要性を提起、軍首脳部と対策を議論した。
南ベトナムは政情不安の中、北ベトナムやベトコンとの戦争を遂行する能力がないことが明らかになった。米国リンドン・ジョンソン政府は64年5月9日、友邦25カ国に派兵、参戦を要請した。韓国は64年6月10日、在韓米軍司令官に「移動外科病院とテコンド教官を派兵する」と通知した。
64年7月15日、南ベトナム政府が派兵を要請した。政府は「韓国戦争に参戦した友好国へのお返し」「ベトナム戦線は韓国戦線と直結する」という名分で国会に派兵同意を要請した。7月31日、国軍ベトナム派兵のための第1次派兵動議案が通過した。
(つづく) |