ログイン 新規登録
最終更新日: 2021-01-14 00:00:00
Untitled Document
ホーム > 連載
2020年11月26日 00:00
文字サイズ 記事をメールする 印刷 ニューススクラップ
 
 
海を渡った先人達(70) 先人11人目 孝徳天皇④/先人12人目 斉明天皇①

 碑文には、『甲寅の年(654年)の正月九日、奈祇城の砂宅智積が、人生の無常を嘆き、宝塔を建立した』と記されているので、この碑は、智積(巨勢徳太)が、本名の砂宅智積の名で建立したものと推定されます。宝塔とは、故人の霊の成仏を願い供養するために建てるものです。智積は、孝徳天皇の最期を看取ったようです。
654年1月9日に宝塔を建てているので、孝徳天皇は、その日付以前に亡くなっていることが確認できます。実際の崩御日は、653年10月10日だったのかもしれません。
現在、孝徳天皇の陵は、大阪府太子町にある径約32メートルの円墳・山田上ノ山古墳に治定されていますが、間違いないと考えています。

【先人12人目】斉明天皇①

 斉明天皇(在位655~661年)は、舒明天皇(在位629~641年)の皇后・宝皇女であり、舒明天皇の崩御後、皇極天皇(在位642~645年)に即位したとされています。しかし、642~645年は倭王・入鹿の治世であったと推定されるので、皇極天皇紀は創作されたものと考えられます。
斉明天皇の名は、天豊財重日足姫と言います。その名から、充分な財産を持っていた美しい女性だったようです。また斉明天皇は、初め高向王に嫁して漢皇子を生んだとされています。高向王についてはよくわかりませんが、漢皇子は孝徳政権で国博士(国政の顧問)になった高向史玄理と思われます。
すでに【中臣鎌足】のところで斉明天皇の概要を述べましたが、ここでは、より詳しく実像に迫ってみたいと思います。まずは斉明天皇が倭国に来た時期を、日本書紀と百済本紀の記述から探ってみることにします。
・百済本紀、武王三十九年(638年)3月『王與嬪、御泛舟大池』<王と嬪が大池に舟を浮かべた>
・日本書紀、舒明天皇十年(638年)10月『有間の湯に幸行された』十一年(639年)1月『有間から帰られた』、7月『百済川のほとりを宮の地とし、大宮と大寺を造った』
・百済本紀、武王四十年(639年)10月『使者を遣わし、唐に金の甲を献上した』、四十二年(641年)3月『武王崩御』
これらの記述の中で最も気になるのは、百済本紀の武王三十九年(638年)3月『王と嬪が大池に舟を浮かべた』というものです。これは、比喩的に表されていると考えられます。大胆な推測になりますが、『百済の武王と嬪は、638年3月に、海を渡って倭国に行った』ということのようです。
武王と嬪が倭国に行ったとしたら、その目的は何だったのでしょうか。638年当時、倭国には人質として差し出された武王の王子・豊璋が滞在していました。日本書紀に『631年3月、百済王・義慈は、王子豊璋を人質として送って来た』とあり、豊璋は義慈王の王子と記されています。しかし、当時の百済王は、武王(在位600~641年)です。義慈王の王子というのは書紀の編者の誤記と思われますが、何らかの作意も感じられます。

2020-11-26 6面
뉴스스크랩하기
連載セクション一覧へ
韓日をつなぐクリエイター それぞれの...
大阪でも「トランプ再選支持」
【人と今】飯本 和美さん(硝子工芸家)
本国の慰安婦問題判決に「異議」
米中戦争は価値と体制選択の文明戦争ー2
ブログ記事
ひみつきち
「トロッコ問題」問題
道徳と相対主義(哲学の現在6)
4.15総選挙の不正疑惑を徹底調査せよ!
中国の脅威
自由統一
「非核化」の仮面を脱いだ金正恩
著作権料の名目で北に送金
平壌を動かしているのは誰か
平壌の異変、権力構造に重大な変化
対北ビラ弾圧は利敵行為


Copyright ⓒ OneKorea Daily News All rights reserved ONEKOREANEWS.net
会社沿革 会員規約 お問合せ お知らせ

当社は特定宗教団体とは一切関係ありません