ログイン 新規登録
最終更新日: 2026-10-02 02:51:01
Untitled Document
ホーム > 連載
2020年11月26日 00:00
文字サイズ 記事をメールする 印刷 ニューススクラップ
 
 
海を渡った先人達(70) 先人11人目 孝徳天皇④/先人12人目 斉明天皇①

 碑文には、『甲寅の年(654年)の正月九日、奈祇城の砂宅智積が、人生の無常を嘆き、宝塔を建立した』と記されているので、この碑は、智積(巨勢徳太)が、本名の砂宅智積の名で建立したものと推定されます。宝塔とは、故人の霊の成仏を願い供養するために建てるものです。智積は、孝徳天皇の最期を看取ったようです。
654年1月9日に宝塔を建てているので、孝徳天皇は、その日付以前に亡くなっていることが確認できます。実際の崩御日は、653年10月10日だったのかもしれません。
現在、孝徳天皇の陵は、大阪府太子町にある径約32メートルの円墳・山田上ノ山古墳に治定されていますが、間違いないと考えています。

【先人12人目】斉明天皇①

 斉明天皇(在位655~661年)は、舒明天皇(在位629~641年)の皇后・宝皇女であり、舒明天皇の崩御後、皇極天皇(在位642~645年)に即位したとされています。しかし、642~645年は倭王・入鹿の治世であったと推定されるので、皇極天皇紀は創作されたものと考えられます。
斉明天皇の名は、天豊財重日足姫と言います。その名から、充分な財産を持っていた美しい女性だったようです。また斉明天皇は、初め高向王に嫁して漢皇子を生んだとされています。高向王についてはよくわかりませんが、漢皇子は孝徳政権で国博士(国政の顧問)になった高向史玄理と思われます。
すでに【中臣鎌足】のところで斉明天皇の概要を述べましたが、ここでは、より詳しく実像に迫ってみたいと思います。まずは斉明天皇が倭国に来た時期を、日本書紀と百済本紀の記述から探ってみることにします。
・百済本紀、武王三十九年(638年)3月『王與嬪、御泛舟大池』<王と嬪が大池に舟を浮かべた>
・日本書紀、舒明天皇十年(638年)10月『有間の湯に幸行された』十一年(639年)1月『有間から帰られた』、7月『百済川のほとりを宮の地とし、大宮と大寺を造った』
・百済本紀、武王四十年(639年)10月『使者を遣わし、唐に金の甲を献上した』、四十二年(641年)3月『武王崩御』
これらの記述の中で最も気になるのは、百済本紀の武王三十九年(638年)3月『王と嬪が大池に舟を浮かべた』というものです。これは、比喩的に表されていると考えられます。大胆な推測になりますが、『百済の武王と嬪は、638年3月に、海を渡って倭国に行った』ということのようです。
武王と嬪が倭国に行ったとしたら、その目的は何だったのでしょうか。638年当時、倭国には人質として差し出された武王の王子・豊璋が滞在していました。日本書紀に『631年3月、百済王・義慈は、王子豊璋を人質として送って来た』とあり、豊璋は義慈王の王子と記されています。しかし、当時の百済王は、武王(在位600~641年)です。義慈王の王子というのは書紀の編者の誤記と思われますが、何らかの作意も感じられます。

2020-11-26 6面
뉴스스크랩하기
連載セクション一覧へ
「9月の在外同胞」李熙健・新韓銀行名誉会長
在日同胞 張勲さん死去 86歳
숙박 거부에 맞선 40대 재일동포...
米国、韓国に3500億ドル超の対米投資要求
국정원 요원 600명 정보, 북한...
ブログ記事
「ひろゆき」の倫理(倫理私想 第10回)
スパイ大作戦
遠回りか近道か
「半分もある」か「半分しかない」か――相対主義の詭弁の一つ――
アメリカの変化
自由統一
北朝鮮人権映画祭実行委が上映とトーク
金正恩氏の権威強化進む
北韓が新たな韓日分断策
趙成允氏へ「木蓮章」伝授式
コラム 北韓の「スパイ天国」という惨状


Copyright ⓒ OneKorea Daily News All rights reserved ONEKOREANEWS.net
会社沿革 会員規約 お問合せ お知らせ

当社は特定宗教団体とは一切関係ありません