革命政府は、経済開発計画を発表した後、1962年7月、石油公社(現SKエネルギー)を設立した。しかし、技術も資金もなかった。
KOSCOの顔色も窺わねばならなかった。苦心の末、米国の他の石油メジャーであるガルフを引き入れた。ガルフから2500万ドルを調達した石油公社は63年3月12日、蔚山に韓国初の製油所建設の着工をした。韓国の産業化への信号弾を打ち上げたのだ。
13カ月後に完成した蔚山精油工場の一日の原油精製能力は3万5000バレルだった。石油公社の後身であるSKエナジーの一日の原油精製能力が111万5000バレル(2016年)であることを考えれば、石油精製所と呼べそうもない規模だった。だが、蔚山石油精製所は持続的な施設投資を通じて、精油業界の成功モデルに成長。民間企業の参与によって、半世紀後には、韓国の原油精製能力は世界5位になる。
そしてまさにこのように、経済開発計画の効率的かつ断固とした推進こそ、朴正煕と軍事革命の主体が民政移譲に参加しなければならない理由と名分だったのだ。民政移管をめぐる新・旧政治家の対立と摩擦は、単純な権力闘争でなかった。駐韓米国大使館側も、このような側面を見落としていたのだ。
事実、革命政権はエリートの交替を推進した。朴正煕は、軍事革命の理念と目標が大衆の間で広く拡散、根を下ろさねばならないと主張した。
革命一年後、国民再建運動を始めた。国家再建最高会議は、経済や工業計画を樹立、施行するための人材を集めた。最高会議などの革命政権に参加した大学教授は470人だった。これは朴正煕と金鍾泌に個人的に諮問した人士は除いた数字だ。
朴正煕によって新たに形成されたテクノクラシー(technocracy)は二つの「新世代」のエリート集団で構成された。
まず、テクノクラート集団、そして、退役将軍や企業の経営者、専門行政官僚などが混ざった集団だった。全体的に、このエリート集団は、3つの特徴を持っていた。第一、彼らは高度の専門家で、強い自制心を持ち、効率性と目的達成に重点を置いた。第二に、彼らは自分たちの官僚としての行政権と最高統治者の権限の差を明確に理解した。第三に、彼らは朴正煕の国家開発への議題を正確に把握していた。
技術官僚たちは、軍事革命の前は行政官僚や経済官僚の下に置かれていた。革命後、商工部長官に任命された丁来赫は、この構造を根本的に改革した。商工部の主要局長たちを技術官僚に交替した。商工部は、部署全体が一週間、ソウル郊外の国防大学で義務的に「意識訓練」を受けた。
もちろん、朴正煕のテクノクラシーにも家族主義や地域主義などの問題があった。ここで家族主義とは官僚組織や国営企業などで昇進機会が血縁や出身校の縁続きで決定されることをいう。地域主義とは産業用地選定や政界、軍部の高位職の人事で、朴正熙の故郷の慶尚道への配慮だったが、そのため慶尚道地域は、1970年代には韓国工業発展の中心となった。
特に、朴正煕のテクノクラシーは、経済企画院の経済官僚たちと商工部のテクノクラートに分けられた。この分裂は67年3月、科学技術処が設立されて、より明確になった。科学技術局がなくなった経済企画院は、技術テクノクラートが一人も残らなかった。以降、経済企画院の官僚と商工部のテクノクラート間では経済政策へのアプローチの差が出る。
(つづく) |