九つの涙歌の最後「155番歌」。
八隅知 之
和 期 大王 之 恐 也
御陵 奉仕 流 山科 乃 鏡山 尓 夜 者毛
夜 之 盡 晝 者母
日 之 盡 哭耳呼 泣乍 在而哉
百礒城 乃 大宮人 者 去別 南
世の中の人々よ、大王の生前の業績を知らせなければならない。
大王と和解して、大王を恐れなければならない。
天皇の御陵を崇め、仕えようよ。
法であり、模範だった方の墓がある山科の鏡山に夜が更けていく。
夜が過ぎれば昼が来るわ。
日が暮れたら孫が君を呼んでいる。
せっせと築いた百礒城の大宮に住んでいた方が去り、私たちと別れる。
額田王が山科にある天智天皇陵を訪れて去るときに作った作品である。山科御陵は現在の京都市山科区御陵鴨戸町にある。天智天皇の御陵は、壬申の乱により造成が遅れたため、臨時に百礒城に埋葬されたが山科御陵へ移された。
本作品は天下大乱に驚いた女人の心が目立っている。額田王が壬申の乱の後、天智天皇の孫である葛野王(かどののおう)を連れて御陵を参拝した時に読んだ歌だ。額田王は大海人との間に十市皇女(とおちのひめみこ)という娘を産んだ。その娘が天智天皇の息子である大友皇子に嫁いだ。大友皇子と十市皇女の息子が葛野王である。
山科は天智天皇の墓がある場所で、鏡山は山の名前だ。山科鏡山を固有名詞法で解けば、「天智天皇は法であり、模範だった」という意味になる。百礒城は百の岩で城を築いた方という意味だ。実際、天智天皇は唐と新羅の攻撃に備えて数多くの城を築いた。
天智天皇の霊魂は多くの人々の涙歌の中であの世へ去っていった。後継者の大友皇子は、天智天皇の弟の大海人と娘の〓野讃良皇女の夫婦に皇位を奪われた。天智天皇の直系の孫が皇位を取り戻すまで99年がかかっている。この間の物語が万葉集には数多く収録されている。
これから読者の皆さんを、大河ドラマよりもドラマチックな物語の中へ招待しよう。
神も勝てなかった君(天智天皇への涙歌9首) <了> |