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最終更新日: 2020-08-10 19:12:58
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2020年07月08日 00:00
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海を渡った先人達<54> 先人9人目 崇峻天皇⑨

 法隆寺・百済寺、威徳院の3地点を結ぶと「15度・60度・105度」の三角形になり、二つの直角三角形に分割すると「15度・75度・90度」と「30度・60度・90度」になりました。この形から三つの寺が関連していることがわかります。これらのことから、大通寺・百済寺・威徳院・法隆寺には、聖明王・威徳王・威徳王の王子の三人が祀られているようです。
また、法隆寺の夢殿に聖徳太子の等身大とされる「救世観音像」が安置されていますが、身長がおよそ180センチであることから、威徳王の王子を模して造られた可能性が非常に高いと考えられます。この像は江戸時代までは絶対秘仏とされ、457メートルもの白い木綿の布でぐるぐる巻きにされて厳重に保管されていました。しかし、明治初期にフェノロサによって白日の下にさらされたのです。

【先人10人目】中臣鎌足①

645年6月に起こった「蘇我入鹿殺害事件」の首謀者として、中臣鎌足の名はあまりにも有名です。その後の大化の改新を主導したのも中臣鎌足と思われます。そして【蘇我氏】のところで、中臣鎌足がなぜ倭王・蘇我入鹿を殺害し倭国を滅ぼさなければならなかったのか、という疑問が生じていました。これから鎌足の実像を探っていくことで、その答えが導き出されることと思います。
中臣鎌足の次男・不比等の孫・藤原仲麻呂が撰した『藤氏家伝』の「大織冠伝」によると、『鎌足は、614年に神祇伯の大中臣美気祐の長子として大和国高市郡で生まれ、祖先は天児屋根命であり、代々天地の祭りを司っていた。669年10月16日に死去し、670年9月6日に山階精舎に葬られた』とされています。
また、鎌足には、貞慧(定恵)と史(不比等)という二人の息子がいたとあり、それぞれの伝記が別にあると記されていますが、残念ながら「史伝」は失われ、現在に伝えられていません。
中臣鎌足が日本書紀に初めて登場するのは、欽明天皇十三年(552年)10月のことです。中臣連鎌子という名で、物部大連尾輿とともに仏教礼拝を反対した人物として表されています。しかし、614年に生まれたとされる鎌足が、552年に出現しているのは無理があります。これは、鎌足が仏教礼拝に反対している人物であることを強調するために、書紀の編者が敢えてこの場面に登場させたものと考えられます。
次に登場するのは、皇極天皇三年(644年)1月の『中臣鎌子連を神祇伯に任じたが、再三辞退して受けなかった。病と称して摂津の三島に住んだ』という記述です。
鎌足が住んだ摂津の三島は、任那全域が新羅に取り込まれた562年以降、本国に帰国せずに定住した新羅人の河内国更荒郡う野邑(大阪府四条畷付近)の、川を隔てた北側に位置しています。う野邑は、その名称から天武天皇の皇后・う野讃良皇女がイメージされますが、皇女は、天智天皇の娘とされています。しかし、644年頃に鎌足と新羅人の娘との間に生まれた可能性がありそうです。

2020-07-08 6面
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