問題意識と学習能力に優れた朴正煕だが、1960年代初めの韓国の現実は苛酷だった。朴正熙は無から有を作り出さねばならなかった。必死に活路を模索した。韓国が持つ唯一かつ最大の資源である人的資源を最大限開発し動員した。広く人材を求め、核心的ポストに登用した。官僚組織を整備し、強力な中央集中制を通じて、国力を組織化するため努力した。
中央情報部は南・北の対決において冷戦の司令塔として機能し始めた。朴正煕は、自分の構想を強く推進し監督する組織が必要だった。情報機関こそ、このような要求を支える組織だった。米国も東西冷戦の最前線に立っている朴正煕政府を支援した。
朴正煕のビジョンと能力は、生れつきの人柄、人間性など不断の努力によって出来上がったものだ。後述するが、金日成は韓国に強力で効率的な反共政府の出現に緊張した。金日成は「4大軍事路線」と「3大革命力量強化路線」をもって対応することになるが、これは金日成が朴正煕政権をどれほど警戒し恐れていたかを物語る。
朴正煕は、国際情勢と世界史的な情勢の変化を観察、分析し、韓国の現実の中で選択できる方策を模索した。冷静に現実を分析した彼は、自分の公約緊急な課題を処理した後、軍に復帰することは不可能である現実を認めた。
大統領選挙を出ることにした。まず、憲法改正に着手した。62年9月23日から30日まで、全国の道庁所在地で憲法改正の公聴会が開かれた。
10月31日、憲法改正案を完成、直ちに最高会議(当時、国会の役割をした)で可決され、12月17日の国民投票で79%の賛成を得た。新憲法は12月26日、公布された。第3共和国憲法である。
4年重任の大統領中心制と国会一院制、強力な政党政治を骨子としたこの憲法の内容については非民主的でないかとの是非がなかった。今日では考えられない速度だったが、この憲法改正過程は、最も模範的な事例として挙げられる。後に、80年代に大統領直選制への改憲を主張した金大中などの政治家たちも「簡単に言えば、第3共和国憲法への復帰を要求する」というほどだった。
憲法条文の逐条審議に参加した金潤根最高委員によれば、大統領の任期の「単任」と「4年重任」に関して激論が交わされたという。ある委員は、「現職の大統領が出馬すれば公務員と警察が過剰忠誠をするようになっている」とし「任期を延長してでも、重任は許せない」と主張したという。
朴正煕の立場では、3共和国憲法に「重大なミス」が一つあった。以前の憲法は、大統領と長官などが職務の執行で憲法と法律に違反したときの弾劾訴追の議決条件を「国会議員50人以上発議に在籍議員の3分の2の出席と出席議員の3分の2の賛成」と、厳格に規定した。ところが、改正憲法は、これを「30人以上の発議に在籍議員の過半数の賛成」で、大統領と長官の弾劾訴追を議決し、弾劾審判委員会(大法院長が委員長)へ回付することができ、議決された者は弾劾決定が出るまでその権限行使が停止されることしたのだ。
もし、野党が国会の過半数議席を占めれば、与党出身の大統領を容易に弾劾議決ができるという意味だ。朴正煕議長は改正憲法が公布された後、この条項を発見して怒ったが、すでに後の祭りだった。この条項は69年、大統領の3選を可能にする改憲のとき改正される。
(*先週の連載の最後を「警護員を離して、植木行事を行った」に訂正します)(つづく) |