倭王・馬子の宮廷は、どこに築かれたのでしょうか。
そこを、大和三山(耳成山・畝傍山・天の香久山)に囲まれた、今の橿原市四分町の明日香川の西側あたりに比定したいと思います。宮廷・治田宮は、馬子の墓と推定している丸山古墳を基点とする「中ツ道」を中心軸として造られ、宮廷内には、明日香川から水を引き込んだ大きな池があり、その池の中に島が築かれていたと考えています。『馬子大臣は、嶋大臣とも呼ばれていた』と、日本書紀にありますが、本当は「嶋王」だったのです。
そして中ツ道は、奈良盆地北部の朱雀地域を通り抜け、更に北にある相楽神社付近まで延びていたようです。倭王・馬子の時に、すでに藤原京にも匹敵するか、あるいはそれをも凌ぐ規模の都が造られていたことが想像できます。
最後に、現在の法隆寺金堂に安置されている「釈迦三尊像」の光背銘を紹介して、蘇我氏の話を終了させていただきます。
『法興元三十一年歳次辛巳十二月、鬼前太后崩、明年正月二十二日、上宮法皇枕病弗念、干食王后仍以労疾、並著於床時、王后王子等、及與諸臣、深懐愁毒、共相発願、仰依三寶、當造釋像、尺寸王身、(中略)二月二十一日癸酉、王后即世、翌日法皇登遐、癸未年三月中、如願敬造釈迦尊像、(中略)使司馬鞍首止利佛師造』
<法興元号31年、621年12月、鬼前太后が崩御された。翌年の正月22日、上宮法皇が思いがけなくも病に陥ってしまった。干食王后も心労により、並んで床についていた時、王后の王子らは、諸臣らとともに深く案じ悲しみ、三宝を仰ぎ見て、王の等身大の像を造ることを共に発願した。(中略)2月21日の深夜、王后がこの世を去られた。翌日、法皇も遠くに登ってしまわれた。623年3月中に、願いのとおりに釈迦尊像を敬い造った。(中略)司馬鞍首止利佛師に造らせた。>
光背銘から、上宮法皇(馬子王)の時に「法興」という元号が使用されていたことが確認できます。また、干食王后は、名前の類似から豊御食炊屋姫と思われ、鬼前太后は、欽明天皇(稲目王)の妃で、豊御食炊屋姫の実母・堅塩媛と思われます。
【先人9人目】崇峻天皇①
崇峻天皇は、日本書紀によれば、587年に即位し592年に崩御したとされる、皇后を立てていない不思議な天皇です。
これまで、蘇我氏は倭王であったと考証してきました。崇峻天皇の在位年(587~592年)は、倭王・馬子の治世(572~622年)に重なっていることから、崇峻天皇は倭王ではなかったことになります。そして、蘇我馬子の差し向けた刺客によって暗殺されているのです。つまり、時の倭王による殺害命令でした。
倭王ではなかった崇峻天皇は、誰なのでしょうか。なぜ、殺されたのでしょうか。そして、なぜ天皇とされているのでしょうか。その謎をこれから紐解いていきたいと思いますが、以降の論考において、蘇我氏を倭王と表記させていただくことをご了承下さい。 |