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最終更新日: 2020-05-22 06:51:26
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2020年04月22日 00:00
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海を渡った先人達<45> 先人8人目 蘇我氏⑦

 騎馬民族である鮮卑族の拓跋氏は、初めは大興安領北部に居住したことが明らかになっています。やがて南下して、386年に北魏王朝を建てましたが、534年に東西に分裂して滅亡に至っています。
蘇我氏の初代「稲目」の名が日本書紀に初めて登場するのは、宣化天皇元年(536年)2月の『蘇我稲目宿禰を大臣とした』との記述からですが、これは北魏の滅亡からおよそ2年後のことです。この流れを見ると、蘇我稲目は宣化天皇でもあり、北魏の政権に関わっていた人物の可能性があることから、蘇我氏のルーツは鮮卑族の拓跋氏であろうと考えています。
次に近年、教科書から名前が消えたと言われている「聖徳太子」について考えてみます。
日本書紀の推古天皇紀は593年~628年までですが、この間、倭王は4回にわたり隋に朝貢しています。これまでの考察で、この時の倭王は蘇我馬子であろうと推定しましたが、その馬子王の時に皇太子となり国政をすべて任され十二階の冠位と十七条の憲法を創った聖徳太子とは、誰だったのでしょうか。素直に考えれば、太子の蝦夷なのですが…。
聖徳太子は聖人のような知恵を持っていて、成人してからは一度に十人の訴えを聞いても誤りがなく、また、仏法を高麗の僧・慧慈に、儒教の経典を覚哿博士に学び、上宮厩戸豊聡太子とも言い、厩戸皇子・豊耳聡聖徳太子・豊聡耳法大王・法主王など、何と六つの名で呼ばれていました。
これらの名の中で、「太子」と「大王」は、倭王「アメ・タリシヒコ・オオキミ」に対応していると思われ、また、「厩戸」は、蘇我馬子の「馬子」に対応しています。「ウマヤ・ト」↓「ウマ・コ」と転化するからです。この結果、聖徳太子は、蘇我馬子=アメ・タリシヒコ・オオキミであろうと導き出されました。
また、蘇我氏が祀られている「法隆寺」、馬子の墓と推定した「丸山古墳」、南河内郡の太子町にある「聖徳太子御廟」の3地点を結ぶと「50度・60度・70度」になり、二つの直角三角形に分割すると「20度・70度・90度」と「30度・60度・90度」になります。この形は、たいへん強い関連が示されています。このことも、蘇我馬子が聖徳太子であろうと推定できる根拠の一つになると思います。
稲目王(欽明天皇)の第2子・馬子は、訳語田渟中倉太珠敷尊とも言い、兄の箭田珠勝大兄皇子が552年4月に死去したために、554年1月に太子に立てられました。その後、宮殿の南の上宮に住んだので上宮厩戸豊聡太子、豊耳聡聖徳太子などと呼ばれましたが、その名が示すように人並み外れた聴力を持ち頭脳明晰な太子だったことが想像されます。
やがて、父の稲目王の崩御に伴い、572年頃に倭王に即位すると、豊聡耳法大王・上宮法皇などと呼ばれました。622年の崩御まで、およそ50年間も倭王の地位にあったことになります。隋書による、後宮の女が6、700人いたという記述も、何やら真実味を帯びてきます。
603年に制定された十二階の冠位、604年に発表された十七条の憲法も、倭王・馬子によって成されたことになりますが、十七条の憲法を詳細に読んでみると、憲法というよりも官人への訓示そのものです。これらの改革は、隋の高祖・楊堅の訓示に影響されたものと思われます。

2020-04-22 6面
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