後宮に6、7百人の女がいる、という記述には驚かされます。12階の官位については、日本書紀では「徳・仁・礼・信・義・智」の順になっていますが、隋書の記録では「徳・仁・義・礼・智・信」です。この順序は、孔子や孟子などの儒教思想に則っています。
次に示すのは、唐の時代に成立した『翰苑・蕃夷部・倭国』の一部です。 『今思うに、その王の姓は「アメ」、国号は「オオキミ」なり。「華言」は運命の子なり。父は子に王位を伝える。王の長子は、「ワ」又は「リ」カミタフリ・華言太子、と言う。その賢さと信用で官に任じられた。倭国に12等の官がある。第一に、マヒトキミ・華言大徳。(後略)』
この記述によると、倭王の太子の名は「華言」とあります。「華言」の中国語の発音は「ホゥア・イェン」です。倭国で、当時どのように発音していたかは不明ですが、「か・いう」と読めます。「かいう」という名を持つ人物を探ると、蘇我蝦夷に行き着きました。日本書紀では「蝦夷」に「えみし」と仮名が振られていますが、「かい」とも読めることから、華言太子とは、蘇我馬子の子「蝦夷」のことと思われます。
以上のことから、隋に朝貢した倭王は、蘇我馬子と推定され、馬子の子・蝦夷の発音は、「かい」または「かいう」だったようです。やがて、太子・蝦夷は、馬子王崩御後に倭王に即位し、隋の滅亡後に成立した唐に、631年に朝貢しました。『旧唐書・東夷伝・倭国』に、次のように記されています。
『貞観五年(631年)使者を遣わして方物を献じた。太宗は、その道が遠いのを哀れみ、所司に、毎年朝貢しなくてもよいと伝えるよう命じた。また、新州刺使の高表仁を遣わし、帰りの使節に付き添わせた。表仁は、遠方の国への思いやりがなかった。王子と儀式の作法(又は、贈り物)のことで争い、朝命を宣言せずに帰国した。貞観二十二年(648年)に至って、新羅に従って上表を奉じた。その結果、生活の様子がわかった』
この記録に見える王子とは、入鹿のことと推察されます。後に倭王に即位した入鹿は、唐に朝貢することがありませんでした。高表仁とのことがトラウマになっていたのかもしれません。再び唐に朝貢したのは、入鹿王が殺害され倭国が滅亡した3年後の648年のことでした。この時、新羅に従っていたと記されています。
次に、蘇我氏の出自を、墓制から探ってみることにします。初代蘇我氏の「蘇我稲目宿禰(すくね)」という名から、伽耶系のようですが、墓制から見ると出自は異なります。伽耶系の場合は「円墳」ですが、蘇我氏は「方墳」なのです。
明日香村に、石舞台古墳があります。この古墳は、一辺約50メートルの方墳と確定されていて、現在は大きな石室のみが残されています。この古墳から南南東へ約400メートルの所に、6世紀後半に造られたとされる都塚古墳があります。この古墳は、約40メートル四方の方墳ですが、7段以上の階段があるピラミッド状の墳丘が確認されたことで、日本中を驚かせました。この都塚古墳の周辺には、司馬達等の子孫が建てた金剛寺と坂田寺があることから、都塚古墳を司馬達等の墓に比定したいと思います。 |