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2020年03月25日 00:00
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大韓民国の建国史(188)克明に対比される南・北の国土と自然環境

 マグサイサイ大統領の下で副大統領を務め、1957年から61年までの間、フィリピンの大統領だったガルシア(Garcia Carlos Polestico)が、打ち出したのは、民族主義やフィリピン優先主義、輸入代替産業の育成を柱とする政策だった。当時、著名な経済学者たちとほとんどの民族主義性向の国々が選択した路線だ。だが、そういう選択は結局、国民を貧困に追い込んだ。指導者の洞察力と選択が国の未来を決定するのだ。
朴正煕は、経済開発戦略において工業化を優先した。農業は後回しになった。ところが、朴正煕は工業化のみを追求したのではなかった。彼は国家経営の基本に忠実だった。朴正煕は、自分が設定したその時その時の最重要課題を直接発表した。何を先に、いつ始めるかを設定し実行した。ところで、朴正熙は革命直後の混乱状況でも山林緑化を強調した。今、韓国の鬱蒼とした森林は、朴正煕が残したものだ。
今日、多くの国々が近代化の過程で、公害や砂漠化など国土荒廃の副作用を残しているが、韓国は山林緑化においても人類史的な成功例である。国連食糧農業機関(FAO)が発行した報告書は、韓国が第2次世界大戦後、荒廃した森林を回復することで成功した唯一の国と報告している。韓国は朝鮮王朝以来、貧しい百姓が木を切って暖房などに使ったため、ほぼすべての山が禿山となった。
李承晩大統領は、建国翌年の49年4月、植木日を制定、祝日として森林回復のため全力を尽くした。だが、金日成が起こした6・25戦争によって、国土が荒廃した。韓国では戦後の復興過程で、食糧保全と衛生問題を解決するため、学校で生徒にネズミを駆除するよう定めた。特に、小学生の遠足は、山にマツケムシを駆除に行くことだった。
朴正煕は革命直後、電源開発事業に着手し、62年に森林法を制定、同年2月16日、山林緑化事業促進大会を開催した。朴正煕は毎年、植木日には国を挙げて木を植えた。貧弱な国家財政からも、大々的に砂防・造林事業を進めた。
朴正煕大統領は「飢餓と貧困からの解放」という旗印の下、産業化を進めながら、環境汚染に対する基本対策を念頭に置いた。朴正煕大統領は、蔚山工業センターを設立した62年、公害防止法を作るよう保健社会部に指示した。韓国が貧困から脱するためには、農業より工業化へ進まねばならず、工業国となれば、公害が発生するから、これに備えねばならないということだった。こうして63年、「公害防止法」が制定された。
韓国よりも先に産業化を始めた日本が、公害防止法を制定したのが67年だから、韓国が日本より4年早かったのだ。だがこの法は、経済成長の欲求に押されて、十分機能せず、78年にもっと強化された「環境保全法(77年制定)」となった。
今日、韓半島の自然は南・北がはっきりと対比される。韓国は治山治水に成功し、森林がうっそうとし自然災害が少ない。一方、北韓は極端な偶像化作業のため、自然まで破壊し、金日成の教示で食料増産を名目に山林を伐採し、段々畑を作り、国土を荒廃させた。その結果、自然災害が後を絶たない。
自由民主体制と国民を愛した偉大な李承晩建国大統領と朴正煕大統領に比較して、スターリンの操り人形で権力を掌握した金日成一党は、「パルチザン精神」で科学や常識を無視、粛清と略奪を正当化してきたためだ。  (つづく)

2020-03-25 3面
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