南斉や梁への朝貢で、百済と同等の称号を要求し、また、認められたことの意味は、倭王・武の、百済王(蓋鹵)の子としての自尊心と中国への強い忠誠の熱意が、天子の心に届いた結果だったと考えています。
やがて、東城王が暗殺されて、41歳で百済王に即位するや、翌年に高句麗の辺境に兵を送り侵攻させ、その後、漢城を取り戻し、512年には高句麗を攻撃して大勝利を挙げています。このような経緯を見ると、武(斯麻)は、父(蓋鹵王)や兄たち(文周・昆支)の仇を討つために、一刻も早く百済王となり、高句麗を打ち砕く日を待ちわびていたことがうかがわれます。
ところで、蓋鹵王の上表文には次のような記述もあります。
『去る庚辰年(440年)以降、私の西界は、小石山で、北の国は、海中にあります。多くの屍を見て、併せて、衣器や鞍・勒を得ましたが、これらは高句麗の物ではありません。後に、これらの国の王が、私の国に降伏して来たと聞きました』
蓋鹵王は、455年の即位以前の440年以降に、倭国の東国を制圧したことを言っているようです。「小石山」は、どこの山のことなのかはわかりませんが、「北の国は、海中にあります」とは、百済から見て海中にある北の国は、日本列島の東国を指していると解釈できます。そして、「鞍や勒を得た」ということから、東国の蝦夷は、騎馬民族と思われます。また、倭王・武が、「東は毛人を征すること55国」と言っていることから、蝦夷は、毛深いペルシャ系やトルコ系の人だった可能性がありそうです。
蓋鹵王が、440年以降に倭国の蝦夷を制圧したと推測されることから、倭国の九州から関東を支配したという「ワカタケル大王」に重なりますが、東国の蝦夷を征伐した物語が、古事記や日本書紀にあります。それが「ヤマトタケルの物語」です。
【駿河の国で火に囲まれた時、草薙の剣で草を薙ぎ払い、火中から脱出した話】【上総の沖で嵐に巻き込まれた時、弟橘姫が海に入ると嵐が静まり、無事に房総半島に上陸できた話】【蝦夷を征伐した後、伊勢国で亡くなり葬られたが、白鳥になって飛んで行った話】等々。誰もが、その武勇伝に魅せられたのではないでしょうか。そのようなヤマトタケルの実態と、ワカタケル大王と百済の蓋鹵王との関連を探ってみることにします。
ヤマトタケルという名の謂れについては、日本書紀の景行天皇紀にあります。それによると、『倭童男が16歳の時のこと、熊襲を討った時にタケルという将帥の頭がいた。倭童男は女装して、タケルにたくさん酒を飲ませ、酔いがまわったところでタケルの胸を刺した。タケルは亡くなる前に、勇ましい倭童男を名づけてヤマトタケルと申し上げたいと言った。それでヤマトタケルという』とあります。
タケルは、日本列島に住んでいた原住民(ポリネシア系の縄文人)の言葉だと考えています。日本語では、勇ましく強いことを「タケダケしい」と言い、勇ましい叫び声を「おタケび」と言うことから、タケルとは、「非常に勇ましく強い男」という意味になると思います。 |