先進国で展開された急速な技術革新が、この変化をもたらした。これによって、天然資源を豊富に保有する後進国らが世界貿易からますます疎外されるようになった。後進国は、いまや支配されるより疎外されるようになった。そして、先進国と後進国間の経済的格差はさらに拡大していった。
そんな中、以前は見られなかった新しい現象が見られ始めた。先進国が後進国の工業製品を輸入し始めたのだ。それは、先進国の産業構造が高度化し、労働集約的な工業製品を自国で生産するのが困難になったからだ。例えば1964年から73年間、米国の輸入で工業製品が占める割合は40・5%から60・5%に急増した。増加した輸入工業製品の大部分は、後進国が生産した衣類、靴、家具などの軽工業製品だった。
実は、米国市場に労働集約的な工業製品を輸出して高度成長へと走った最初の国は、50年代の日本だった。ところが、米国市場で労働集約的な工業製品の需要がさらに増加し、60年代以降、日本も産業構造が高度化するや、その機会は、いろいろな後進国に開放されたのだ。
つまり、意志と能力さえあれば後進国が豊富な労働力を活用して、先進国へ工業製品を輸出できる。世界経済の新たな時代が始まっていた。そのような意志と能力を発揮した最初の数少ない国の一つが韓国だった。いわゆる「漢江の奇跡」は、このような世界経済の新たな時代を背景とした。だが61年5月に登場した朴正煕政府がこれに気付くまで、3年ほどの試行錯誤が必要だった。
朴正煕政府が経済企画院を設置、経済開発計画を推進することになった経緯については、すでに説明した。経済企画院は計画、予算、外資、統計行政の外、政策の執行や許認可などの現業からは完全に分離されていた。つまり、経済企画院は現実の利害関係から自由で、国家の経済建設という目的を長期的、総合的観点から追求した。
ところで、第1次経済開発計画は卓上計画だった。年平均成長率7・1%は、国民所得を10年で倍増するという目標で設定され数値だった。投資資金3205億ウォンもどこからどう調達するかなど、何の計画もなかった。投資資金を確保しようと電撃実施した通貨改革も、市場の混乱だけ惹き起こし失敗した。外国借款の導入を促進する目的で、民間企業が外国借款を導入する際、政府が支払い保証をする法律が62年7月に制定されたのも、外国では類例がないものだった。実績はみすぼらしかった。
韓国は61年輸出4100万ドル、輸入は3億1600万ドルだった。貿易赤字は、ほとんど米国の援助で埋めた。韓国が自力で投資資金を造成する方策は、輸出を増やし外貨を稼ぐことだった。朴正煕政府は62年の輸出目標を6090万ドルとしたが、実績は5480万ドルだった。ところが、63年は輸出目標7170万ドルを大きく上回る8680万ドルを輸出し、成長率9・1%を達成した。工業製品の輸出が予想外に大きく増加したのだ。
韓国経済の伝統的な輸出品は農産物の米、水産物の海苔、鉱産物のタングステンと石炭などだった。つまり、1次産業と自然資源を輸出することだった。63年の輸出目標7170万ドルは、農水産物が2320万ドル、鉱産物2940万ドル、工業製品の輸出目標は640万ドルだった。だが、工業製品の輸出が当初の計画より4・4倍多い2810万ドルだった。農水産物1810万ドルと鉱産物2620万ドルは目標を下回った。(つづく) |