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2020年02月05日 00:00
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大韓民国の建国史(182)戦後世界の経済発展と大韓民国の高度経済成長

 その他にも、建国憲法にあった混合経済的な要素、例えば”国家は対外貿易を統制し、必要なときは私営企業を公営または国営へと移転できる”という規定も廃止か大幅修正された。そもそも大韓民国の建国憲法は、(韓国)社会から導出されたものでなく、良いと言われた外国の憲法を寄せ集めた形で作られた。軍事革命によって国づくりが進み、憲法も現実に合致する形で少しずつ改良された。

朴正煕は、李承晩の大統領中心制を継承した。軍事革命で権力を掌握した朴正煕将軍に、執権の正当性を付与したのは、国民の直接投票で選出された大統領中心制だった。選挙で敗北したら、勝利した民間大統領によって軍事反乱を追及され、処罰・処刑されたかもしれない。だが、多数国民が朴正熙を支持し当選させた。そのため韓国の民主政治制度は不完全ながら、法的・道徳的正統性を回復しながら成長することになる。

つまり、李承晩大統領が国会の既得権勢力を抑えながら成し遂げた国民の大統領直接選出の現実性と力動性が、5・16軍事革命を経ながら、政治的変革を可能にしたのだ。5・16軍事革命から始まった近代化革命は、李承晩大統領の建国偉業の上に立ったものだ。その点で、朴正煕は李承晩の嫡子だ。4・19学生義挙と5・16軍事革命は、表面的は対立するが内面では連続する歴史だ。二つの事件は李承晩建国大統領によって自由民主主義の国家体制が建てられた上に、国家経済を創出する歴史的課題を追求したものだ。要するに、5・16は国家建設の第2段階の課題を遂行する新しい政治勢力が登場する革命だったのだ。

いずれにせよ、韓国経済は63年から高度経済成長を始めた。
1962年の経済成長率は2・1%に過ぎなかったが、63年は9・1%に急増した。以来、韓国経済は高度成長へと疾走する。朴正煕大統領が退場する79年まで、朴正煕時代の経済成長率は年平均9・2%だった。87年まで延長すれば年平均成長率は8・7%だ。

1人当たりの国民所得は82ドル(62年)から3218ドル(87年)に増加し、為替レートの変動を考慮した実質所得も6倍となった。これは同じ期間、世界で最も急速な成長率だった。どうしてそのようなことが可能だったか。それは奇跡だったのか。これを理解するためには、その時代の世界経済の動向を見る必要がある。韓国経済の高度成長は、韓国人の能力と努力もが特別だったが、同時代の世界経済が有利な環境を提供したため可能だったと言える。

つまり、世界経済も同じ期間に急速に成長した。概略的な推計によれば、世界経済の実質総所得は62年の9兆1397億ドルから、87年の24兆6865億ドルへと2・7倍増加した(90年価格)。もっと長く、50年から2000年までを見ると、世界経済は6・8倍増加した。このことは、世界経済の歴史で前例がない。1900年から50年間、世界経済の実質成長は2・7倍に過ぎない。

第2次世界大戦後、資本主義の世界経済が、多くの悲観とは逆に「永遠の繁栄」を謳歌できたのは、いわゆる「第3の波」という急速な技術革新のおかげだった。新しい素材、新しい産業、新しい生産方法が創出された。コンピュータを利用した情報通信の革命が基礎となった。技術革新で企業の利潤が大きくなり労働者の賃金水準も高くなった。産業民主主義が成熟して労働者の権利が大いに伸長した。それで資本主義経済体制を脅かした階級闘争が終息した。
(つづく)

2020-02-05 3面
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