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2020年02月05日 00:00
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キスン便り<第10回>韓国留学とチャメ(まくわウリ)

 一九七六年に私は韓国に留学しました。前年に予備課程の留学生がスパイとして逮捕されるという事件がありました。私は予備課程にいる間は大丈夫、と勝手に思い込んでいたので慌てました。

当時の日本のマスコミはスパイ事件はでっち上げで、軍事独裁政権が政権維持のために事件を捏造している、と報道していました。当時の私はマスコミや活字というものを信じていました。それは多くの在日も同じでした。その結果、私が留学した年はそれまでより四割ほど学生が激減しました。校舎には余って使われていない教室が幾つもありました。

私は、いつでっち上げにあって拷問されて殺されるかもしれないという恐怖と戦いながら玄界灘を渡りました。そのまま日本に居れば安全でした。しかし、それでは自分が韓国人であるということに自信が持てず、ただ朽ちていくだけの人生しかありません。

「倒れるときはどぶに倒れても前向きに倒れたい」
龍馬が言ったというそんな言葉を胸に、私は悲壮な覚悟で韓国に行きました。

しかし多くの在日は暢気なものでした。完全に日本人の価値観で韓国を批判し暴言を吐いていました。甚だしくは韓国本国の人を「原ちゃん」つまりは原住民と呼ぶ者まで居る始末です。当時の韓国と日本の経済力の差は段違いでした。加えて韓国の町は汚く埃だらけで、着ているものも粗末でした。だからといって「原ちゃん」などと見下すかね、おまえらさっさと日本に帰化しろよ、と言ってやりたくなるぐらいでした。私は友達と話すときは広いグラウンドを歩きながら話しました。盗聴を怖れたからです。そういう緊張続きの日常に疲れ切った頃、夏休みになったので、韓国一周の旅に出ました。

東海岸の束草(ソクチョ)に着くと、町の風呂場に行って汗を流しました。風呂上がりに全身で受ける風は、生温かかったけれど、それでも心地よいものでした。町の市場らしいところに出ました。頭の弱そうな全身垢まみれの乞食がいました。言葉もままならず、「ああ」とか「おお」とかという声を出すだけで何を話しているのか良く分かりません。

乞食はチャメ(真桑瓜)を売っている果物屋の親父に泣きついていました。後ろではかみさんが「絶対にやるんじゃないよ」と言わんばかりに腕組みをして、睨みをきかせています。店主は困ってしまい、
「おまえ歌を歌え、上手に歌ったらチャメをやる」
といいます。乞食は、
「頂戴よう」
と泣きつきます。店主は、
「歌えよ」
と言います。私は店主を嫌な奴だと思いました。やるならすんなりやればいいものを。なぶるような真似をして何なんだ、と感じました。乞食はおずおずと歌い始めます。「そうそう、その調子」と店主。乞食は全身を動かして手を打とうとします。それを見て店主は、上向きにした両手の手のひらにチャメを乗せて、自分も歌いながら軽いステップで踊り出します。乞食は喜んで「おうおう」と声を発します。そのとき、市場のあちこちから手拍子が起き、掛け声がかかりました。一瞬にしてオンステージです。店主は乞食と共に楽しんでいました。俺にはできない、と思いました。そして乞食を見下していたのは自分の方だったと気がつきました。店主は心地よく歌い終わると、持っていた二つのチャメを乞食に渡しながら「よう歌った」と声を掛けます。後ろでかみさんが「全くこの人は」と、腕組みをしたまま渋い顔で見下ろしています。市場はまた前のように静まりかえりました。乞食はチャメを腕に抱いてよろよろと歩いて行きます。

韓国に来た甲斐があったと、私はホッと溜息をつきました。

李起昇 小説家、公認会計士。著書に、小説『チンダルレ』、『鬼神たちの祝祭』、古代史研究書『日本は韓国だったのか』(いずれもフィールドワイ刊)がある。

2020-02-05 5面
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