講師 勝股 優
飛鳥の地にそびえ立つ100メートル級九重塔
「古代史万華鏡クラブ」へようこそ。万華鏡は別名・百眼鏡。ご存知のように2枚以上の鏡を組み合わせ、鏡内部に封入された対象物の映像を鑑賞する筒状の多面鏡だ。予測を超えた美しい色や模様を見ることができるが、古代の日本(倭、ヤマト)と古代朝鮮の間にも我々が学んだ歴史以上の思いがけない情景が繰り広げられたことだろう。「日本古代史は、朝鮮との関係史でもある」と言ったのは作家・金達寿氏である。ここはひとつ百眼鏡にちなんで多角的な視点で古代の交流の歴史を発掘していきたい。現代の韓日の人々が互いをより理解しあっていくために。
◆百済から先端技術
信じられないかもしれないが7世紀中頃、飛鳥の地には100メートルを超える九重塔が聳え立っていた。日本で初めての政府が建立した官営の寺、その名は百済大寺といった。
紀元前5世紀に生まれた仏教が中国を経て高句麗に伝わったのは372年、百済へは392年、新羅には最も遅い5世紀初め頃に伝わったと言われている。
我が国に伝来したのは538年説と552年説がある。いずれにせよ継体天皇(大王)没後から欽明天皇の時代に百済から伝えられたことは間違いない。
日本書紀には欽明14年の条に百済から寺工、造仏工、瓦博士、鑢盤博士、僧侶、楽師など多数の技術者集団が来日、移住するとある。その後も技術者の来日が続いたことが記されている。
仏教伝来以降、聖徳太子などの皇族や蘇我氏などの豪族が百済を核に高句麗や新羅の三国に仏教を学び施設を作り、590年に蘇我馬子により日本で初めての本格的寺院、元興寺(飛鳥寺)の建設が始まったことを教科書で習ったものだ。
593年に聖徳太子により難波に四天王寺が建立されたというが、今もその門前に店舗をかまえる金剛組は寺院建設のために百済から先端技術を携え来日した柳氏の流れをくむ建設会社だ。578年創立とうたっているからビックリだ。
寺社の創建年代は諸説あるのが普通だが、この二寺のほか606年の法隆寺、669年の興福寺、680年の薬師寺、747年の東大寺などは誰でも知っている寺院だろう。ところが、私が最近ようやくその存在を知ったもの凄い寺があったのだ。学校で習った覚えはない。
◆従来の規模を超え
日本書紀舒明天皇(在位629~641年)11年の条に百済川のほとりに大宮(宮殿)と大寺の造営を始めたとの記がある。病床にあった聖徳太子から太子が作った仏教道場、熊凝精舎を大寺にしてほしいと頼まれた田村皇子が舒明天皇として即位した後の639年、百済大宮と百済大寺の造営をはじめ、太子との約束を果たしたと言われている。
大宮や大寺というからには従来の規模を凌駕する大きさの宮殿や寺院であったろうが、長くその所在地が不明であった。かつては今、百済寺がある広陵町大字百済の地が聖徳太子の熊凝精舎を引き継いだ百済大寺の故地とみられていたが、1991~2001年に行われた桜井市の吉備池遺跡調査中に思いがけず大寺院跡が発見され、それが百済大寺遺跡であるとほぼ確認されたというのだ。1300年余りの時を経て日本書紀が事実であることが判明したというわけだ。
発掘された塔の基壇は一辺32メートルもあったという。その広さは飛鳥時代の塔と比較すると4倍近くの面積で、もちろん今、日本にある塔の基壇とは比較にならないスケールだ。九重塔と明記されていることからも100メートルを超える高さであったと推定されている(創建当時の東大寺の塔も七重で基壇を合わせると100メートル近くあったという説がある)。
日本に現存する五重塔の規模はというと、東大寺(50・1メートル)、興福寺(50・8メートル)、法隆寺(32・4メートル)、東寺(54・8メートル)、コンクリート造りの東京・浅草寺は48・32メートルだ。
今も昔も、前述したような五重塔を見るとその大きさ・高さに感動するのだが、いずれも高さ半分のミニサイズ。より壮大な九重塔の凄さがわかる。ちなみに自然界では日光の華厳の滝が97メートルだから、同じくらいだ。
百済大寺の建設を発願した舒明天皇は完成する前の641年に崩御したが、建設を引き継いだのは宝皇后(天皇崩御後、皇極天皇として即位。後に斉明天皇として重祚)。この女帝は飛鳥の地に須弥山や酒船石などの石像や石庭、長大な運河などを作りまくった土木工事大好きなゼネコン女王だっただけに、舒明天皇との合作が空前のスケールとなったことに納得。
◆なぜ百済の名が
古代の寺院は飛鳥寺が蘇我氏、興福寺が藤原氏、中宮寺が秦氏など、豪族のために作られるのが普通だったが、国家鎮護のために国が作った最初の寺がこの百済大寺であったと言われる。そんな寺の名前がなぜ百済だったのだろうか? 最大の疑問はそこである。とはいえ、古代史の本を読んでもその点についての記載は見当たらなかった。真相は推理するしかない。
邪馬台国の場所について、江戸時代から今日まで新井白石や本居宣長などの大学者から市井の人まで推理研究されているが未だにわからない。古代史は謎だらけだ。だから面白い。
当時の飛鳥あたりについて続日本紀には、「高市郡の人口の8割~9割が渡来人であった」という記述がある。百済人が多く住みついていた地であることは間違いない。今も奈良盆地全体に「百済」の大字や小字地名が残っている。
日本書紀には百済大宮、百済大寺の場所について「百済川のほとりに」とある。百済川がどの川かはっきりしないが、遺跡が発見された吉備池近くを流れる米川が百済川であったと推定されている。飛鳥時代の宮殿は地名由来が多いが、官営の寺院というなら他国のような名ではなく、他の名でも良かったはずだ。
日本と百済の関係は長く深い。律令制や財政運用などは百済の制度をそのまま使ったそうだし、技術、文化、仏教など百済の全面バックアップのもとに国家発展を果たしたことは明らかだ。日本はその見返りに新羅や高句麗と対峙する百済への武力援助で応える…という同盟関係を続けてきた。
舒明朝期には百済からの使いが増加するなど特に親しく、631年には百済の王子豊璋、さらに善光が来日している。
◆百済は憧れの地
百済大寺は大宮と近接する場所に建てられていた。飛鳥時代の宮殿はほぼ天皇(大王)ごとに移動している。場所の選定には天皇を支持する豪族が大きく関わっていたと思われる。その傾向から言えば、舒明天皇のバックボーンは百済系渡来人だったのだろうか。当時の実力者、蘇我氏とは血のつながりがなく、距離を置いていた天皇ともいわれる。当時、蘇我氏が権勢をふるっていた飛鳥とはちょっと離れた地に宮殿を作ったのは理由があるはずだ。
舒明天皇は遣唐使を開始した天皇でもある。文化への憧れが強い天皇であった。エリア・カザンが監督した、ひたすらアメリカに憧れるトルコ人の青年を描いた映画『アメリカ アメリカ』を思い出す。舒明天皇にとって百済は憧れの地であったのではなかろうか。日本に文化をもたらした百済への感謝、友好、同盟への表現もあったであろうと推測したが、考えすぎだろうか。
百済大寺は天武朝期の673年に高市大寺と名を変え移転、677年には大官大寺と改名、さらには平城京遷都後に大安寺となり、今に繋がる数奇な変遷を繰り返した寺である。
その理由がわかるような気がする。660年に百済は新羅・唐連合軍により滅亡、日本が百済復興のために大軍団を半島に送った663年の白村江の戦いで惨敗。さらには672年の壬申の乱に勝利した、親新羅派という説がある天武天皇が即位したことにより移転、改名となったのではなかろうか。
百済大寺という1300余年前に飛鳥の地に聳え立った九重塔は、その時代の半島と列島の交流と時代の流れを俯瞰していたはずだ。