鈴木 惠子
崇神天皇は、即位後十二年(275年)に、御肇国天皇(すめらみこと)の称号を与えられていますが、意味は、「国を初めて起こした天皇」です。おそらく、神武天皇が最初の天皇に据えられる前は、崇神天皇が日本最初の天皇だったのではないでしょうか。
漢風諡号が成立した時期は、桓武天皇が『続日本紀』を編修させた790年~797年頃と思われますが、伽耶系王朝の一連の天皇に「神」の字を付け、神武天皇を日本最初の天皇としたのには、それ相応の理由があったはずです。
この伽耶系王朝は、支石墓・稲作・青銅器・機織り・弥生式土器などを伴って、紀元前1000年以降に、インド、あるいは、タイなどから日本列島に渡って来た民族の子孫のようです。そのインド系王朝は、紀元前後の中国の漢王朝により、徐々に圧迫され、238年の公孫氏の滅亡後は、魏・晋政権の関与により、民衆の崇拝の対象が銅鐸や銅矛から、卑弥呼や壹与による鬼道に替えられ、滅亡しました。そして、その頃、日本固有の文字も公には消されたようです。
第二次世界大戦後、中国共産党を代表して初めて来日した鄧小平が、宮中晩餐会で行ったスピーチの一節に、次のようにありました。
「かつて、中国が、漢字を日本に押しつけてしまったことを、謝ります…」
私は、この言葉にたいへん衝撃を受け、今でも脳裏に焼き付いています。それまでは、漢字は日本が自らの意志で採り入れたとばかり思っていたからです。しかしこの言葉から、中国側には「日本では固有の文字を使用していたにもかかわらず、漢字を押しつけた」という認識があるとわかりました。つまり日本には独自の文字があったのです。それは、伽耶系と思われる茨城県の竹内家が所蔵している古文書(竹内文書)に記されている「神代文字」と呼ばれているものなのかもしれません。中国が漢字を押しつけた時期は、264年に即位した崇神天皇の時であろうと考えています。
桓武天皇は、日本列島を最初に支配した民族が誰であるのか、わかっていたようです。日本列島と朝鮮半島南部のインド系王朝は、同族でした。列島では265年頃に滅亡したと推察されますが、半島では356年に金氏によって滅亡しました。しかし、313年頃に日本に渡った神功皇后によって引き継がれ、347~359年に、神功天皇と神武天皇によって復活を遂げたのです。
伽耶系王朝の王たちに「神」という字を付け、神武天皇を、紀元前661年に即位したとする日本最初の天皇としたのは、日本列島最初の王朝の子孫が建てた伽耶系王朝を尊重するとともに、菟道稚郎子を排除して伽耶系王朝を滅亡させた、自らの祖先・腆支が犯した罪の、せめてもの償いのしるしのように思えてなりません。
桓武天皇は漢文化の崇拝者でしたが、息子たちの平安時代は、日本列島に土着していたポリネシア系の縄文人や、インド系の弥生人の祖霊が、民衆の心の奥深くに眠っていた意識を目覚めさせ、日本古来の、そして、独自の文化が花開いていったのです。それが「平仮名」や「五十音図」の発明だったのではないでしょうか。