たんぽぽ
辛いときに聞いた父からの最初の教え
暮れ行く1974年―私の記憶の始まりであるこの年は、北朝鮮での約38年間の差別といじめの生活が始まった年でもあった。もちろん楽しいこともあったが、30代の大人が4歳の自分の娘の将来を考えて、娘と同い年の私をいじめるという現実に直面したのだ。
金日成は70年11月の朝鮮労働党5次党大会で「自立した社会主義工業国家になった」と発表したが、いま思い出してみても、私の周囲の生活は決して良くはなかった。食料品ショップでは、朝食と夕食の時間におかずの移動販売をしたが、みんな我が家みたいにお金がないのか、あまり買う人はいなかった。工業品ショップで靴などは売っていたが、買うお金がなかったり、お金があるときは靴がなかったりした。しかし、その時期が北朝鮮の歴史の中で一番豊かな時代だったのだ。
朝鮮労働党5次党大会で「主体思想」を朝鮮労働党唯一の思想として、党の指導理念に定めた。74年2月の8次総会では、金正日が金日成の後継者となり、金日成を中心とする唯一指導体系確立が強化された。そんな中で、人々は何か大きな恐怖に包まれており、4歳の子まで恐れていじめないといけないようになっていた。
音楽班の友だちのお母さんが私をいじめるのは、私が患った肝炎のせいかなと思い、肝炎は伝染しないから大丈夫と、その子に話した。次の日にその子は、肝炎が原因ではないと母親から聞いたと、すごく悲しそうな顔をした。
大人が子どもを叱る時は、間違っていることを説明しながら叱るものだと思っていた。けれども、なぜ私に怒っているかの説明がないので、全く理解できなかった。当時、私の周りには肝炎患者・結核患者・小児麻痺患者が多くいて、結核患者が一番いじめられ、小児麻痺患者は身体に障害を持っている人がよりひどくいじめられていた。その子の悲しい顔を見てしまったので、私はその子を避けるようになった。
それまで以上に練習に没頭していったので、いつの間にか音楽班で上位レベルになっていた。後日、これもいじめの原因になった。保育院に行くのがどんどん嫌になった。私が保育園ではなく「院」の字を使って保育院と書くのは、この辛い経験があるからだ。しかし、いったん音楽班に入ると欠席も辞めるのも、本人と家族には決定権がない。音楽班に入るのも出るのも大変だった。
日曜日に、久しぶりにおばあさんと父の面会に行った。父に会うのは嬉しかったが、普段の辛さが顔に出ていたらしく、父がいつもより細かく家や保育院のことを聞いてきた。家のことや保育院の楽しいことなどを話してから、最後に理解できない音楽班の保護者のことを言った。
「音楽班のいじめて来るお母さんの子が憎い?」と父が聞いてきた。「憎くはないけど一緒に遊びたくない」と答えた。「その子のお母さんは憎い?」とまた聞いてきた。「はい」と答えた。父がベッドの横に立って話していた私を自分の膝にあげて「保育院辞めるか」と聞いた。私は「うん」と返事をした。その時、いつものように隣の病室の患者さん5人ぐらいが入ってきた。お菓子・お餅・果物などを持ってきて私の歌を聴き、一緒に歌い、私とおしゃべりし、糸で指かけ遊びをして帰っていった。
父が私によく聞いて欲しいと言って「二人が喧嘩をしてその中で一人が暴力を使い、もう一人に怪我をさせた。二人はそれぞれ自分の家に戻って夜になった。怪我した人は寝たけど、怪我させた人は眠れなかったよ。つまり傷ついた側より、傷つけた側がより苦しいのだよ。だから他人を傷つけたら駄目だし、傷つけた人はそのせいでより苦しんでいるのだから、憎まないでね」と話してくれた。
帰り道、父の話を考えてみた。おばあさんに父の話は本当かと聞いてみた。おばあさんは、自分も親からそんな話を聞かされて、そう思っていると言った。そして、今は理解できないだろうけど、父の話を信じるか信じないか、本当か本当でないか、その判断はあんたに任せるとも言った。
私は理解できてはいないけど、父の話を信じる方を選んだ。歳月が流れ、この話を否定する頃には、私は満身創痍になっていた。しかしその時、父を恨んだりはしなかった。
(つづく)