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2019年06月26日 00:00
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海を渡った先人達<11> 先人3人目 壹与③

 265年に、魏王朝が「司馬炎」に禅譲(能力のある者に位を譲ること)して晋王朝が成立すると、壹与は九州の筑紫平野から奈良盆地に都を移したようです。平塚川添遺跡から王墓に匹敵する遺構が発見されていない理由は、都を移したことによると考えられます。
このことに関して、日本書紀の崇神天皇紀に、『皇位に就いた年は太歳甲申とあり、二年後に都を磯城に移した』と記されていることに注目しています。崇神天皇の名「御間城入彦五十瓊殖」は、漢字を直訳すると<五十人の麗しい臣下と共に中央の城に入って来た高貴な男子>となります。
また、『天照大神と倭大国魂の二神を天皇の御殿の中にお祀りした。ところが、その神の勢いを畏れ、共に住むには不安があった。そこで、天照大神を豊鍬入姫に託して、大和の笠縫邑に祀った。よって、強固な石の神籬(石垣に囲まれた神が降臨する場所)を造った』との記述から推測すると、次のようなことになると思います。
――崇神天皇は、晋王朝から派遣された役人の長官であり、即位年の太歳甲申は、西暦264年と推測される。2年後の266年頃に、30歳の倭王・壹与と役人らは、奈良盆地のほぼ中央に位置している、今の磯城郡田原本町にある「唐古・鍵遺跡」に九州から移り住み、環濠を再掘削して規模を大きくした。そして、新しい都を「邪馬奴国」から「大倭国」に改めた。しかし、晋の役人らは漢字を見て、「ダー・ウェイ国」あるいは、「ダー・イー国」と言ったのに対し、民衆は、「ヤマド国」あるいは、<ヤマ>と<ダーイー>を合わせて「ヤマダイ国=邪馬台国」と言った。
この年、壹与は、晋の武帝に朝貢した。
壹与は、初めは晋の役人の長官(崇神天皇)と同じ敷地内に住んでいたが、やがて、強固な石垣で囲んだ宮殿を造り、食事や身の回りの世話を豊鍬入姫に託して移り住んだ―――
邪馬台国の女王は、卑弥呼ではなくて、壹与のことだったようです。
倭王・壹与の政権が都を奈良盆地に移した後、壹与の宮殿が築かれた場所を、今の奈良県天理市にある「石上神宮」に比定したいと思います。「石上神宮公式サイト」によると、創建は崇神天皇7年(270年)であり、また、拝殿の背後奥に、東西44・5メートル、南北29・5メートルの石垣に囲まれた禁足地という足を踏み入れてはいけない場所があり、古来、御神体が鎮まる最も神聖な霊域とされ、「石上布留高庭」「御本地」「神籬」などと伝えられてきたとのことです。この禁足地は、天照大神が強固な石の神籬に移り住んだという「日本書紀」の記述に一致しています。
石上神宮の祭神は、「布都御魂大神」など3本の剣ですが、「七支刀」という枝のような形をした、たいへん珍しい剣も伝えられています。
石上布留高庭に「布都御魂の剣」を鎮座した、との伝承から、七支刀がそれに当たるのでは、と考えています。

2019-06-26 6面
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