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2019年01月01日 00:00
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「統一日報」創刊60年
紙面と記録で振り返る創刊のスピリット

統一日報旧社屋(東京・赤坂)。現在もこの地に編集部を構える
 統一日報は1959年1月1日、旧植民地宗主国である日本の首都・東京で産声を上げた民族紙だ。独立運動家と統一運動家が意気投合して創刊した。60年という歳月の間、一度も欠刊せず発行を続けてきた。韓国人のプライドを持ち、在日同胞社会の権益擁護と団結に尽力。本紙統一日報は「祖国の平和統一実現」を社是に掲げて創刊し、本日付けでちょうど60年を迎えた。その原点となる創刊のスピリットとは何かを振り返る。

 資金難のなか、東京・西神田で創刊

あらゆる要件が劣悪だった。オフィスは、東京・西神田の専修大学近くにある出版社の2階で、こじんまりした2部屋を間借りした。深刻な資金難のため、新聞の印刷当日まで四方八方を金策に走った。これが祖国統一を目指した宣伝啓蒙運動紙・統一日報の初の歩みだった。創刊当時の表題は「朝鮮新聞」だった。
リーダーは2人。元心昌氏と李榮根氏だ。元心昌氏は日本帝国による植民地時代、外国で起きた3大独立義挙の一つである「上海六三亭義挙」のメインメンバーだった。李榮根氏は、1958年春に発生した「進歩党事件」の余波を避けて日本に渡った亡命論客だった。
独立運動家と亡命した論客には共通認識があった。38度線を敷かれた祖国を看過できず、1日でも早く二つに分裂した南北統一に向けた運動を展開することだ。では何故、2人は韓国ではなく日本で意気投合し新聞を創刊したのか。答えは時代背景の中にある。
祖国韓国は、李承晩政権下で「北進統一論」が広まっていた。「平和統一」を主張する進歩党党員たちがスパイ容疑により死刑などの刑に処された。その余波で、チョ・ボンアン進歩党党首のブレーンだった李氏は日本に渡った。
さらに、元心昌氏は韓国政府を支持する在日同胞団体「在日本大韓民国民団」を創団したメイン人物で、初代事務総長を経て民団中央団長を務めた。
58年9月、元・李の2人を主軸に、東京で「朝鮮統一問題研究所」を立ち上げた。続けて同年12月、朝鮮新聞社を立ち上げ、ついに翌59年1月1日に創刊号を発刊した。
韓民族最大の恥辱である植民の歴史、その宗主国で「民族紙」を発刊するという事実そのものが分断の悲劇に他ならなかった。
創刊辞は「創刊に際し同胞に告ぐ」とのタイトルだった。
「今日の現実、昨今の現象はどういうことか。国土は南北に分断され、民族は左右に分裂している。(中略)我々はまず、祖国の平和統一に対する民族的意志を統一し、その声を一つにしよう。(中略)平和統一への道!それは民族が生きる唯一の道だ。愛する同胞たちよ、苦しくても毅然として、共に手をとりこの道を歩いて行こうではないか。1959年1月1日、日本で朝鮮新聞社同人一同」
創刊1世たちは、同年11月20日付(第20号)で「統一朝鮮新聞」へと改題し、週刊紙へと転換した。海外統一運動の先鋒を目指すため、より多くの人々に統一の重要性と意義を広める必要があるとの意思が結集した。

「民族日報」と英字紙「ワンコリア」

日本で行う統一運動の痛みを克服しようという試みもあった。それが61年2月、韓国で創刊された「民族日報」だ。韓国で平和統一運動と革新的世論の代弁紙を目指した。「民族日報」は「統一日報」の基準では機関紙に該当する。しかし、祖国での統一運動紙発刊の試みは短期間で終わった。同年5・16クーデターが勃発し、軍部政権が「民族日報」を容共とみなし廃刊に追い込んだ。
李榮根氏は生前、非現実性を認めていた。同氏の死後、90年5月に政府が国務会議の議決を経て、「国民勲章無窮花章」を叙勲したほか、2008年1月、ソウル中央地方裁判所が趙鏞壽氏の無罪を宣告したことは、政府自らが過ちを認めたことを意味していた。
一方、統一日報は1961年3月から月間英字新聞「ワンコリア(One Korea)」の発刊を始めた。祖国統一の意志を国際世論化させることを目的に、駐日外国公館や世界各国政府、全世界に散住する海外同胞たちに知らせた。

金日成の平和統一論は民族欺瞞劇

62年8月には「在日韓国政治難民対策委員会」を結成。日本で初めて政治難民問題をイシュー化したのだ。これは、発行人である李榮根氏自身が政治亡命者だったため、命の危険に晒された亡命者の難民認定を求める運動だった。
祖国統一推進会議の同志たちと(前列左端が元心昌先生、後方に李榮根社長が立っている)
 64年10月には「統一朝鮮年鑑」を発刊した。南北統一問題の経過と統一運動史、統一の実現方法、統一後の国家像など各分野別の理論書だった。統一の必要性と意義、原則、方法を整理した世界で初めての出版物だった。67年までに改訂版を発行した。
しかし、いくら理論が秀逸でも実践が伴わなくては現実を変えることはできないものだ。実践的統一運動を展開した統一日報経営陣は65年7月、汎在日同胞統一運動組織体である「韓国民族自立統一同盟日本本部(韓民自統)」を創立した。翌年の66年8月には、在日同胞の青年学生組織である「韓国民族自主統一青年同盟(韓民自青)」と統一運動家幹部養成機関「統一学院」を立ち上げた。
内部では61年9月、金日成の朝鮮労働党第4次大会時に言及した「祖国の平和的統一」に対する若干の期待感をもったことがあった。しかし統一日報は68年1月21日、青瓦台に対する北韓の武装スパイ襲撃事件をきっかけに、北韓政権に対する期待を捨てることになる。
発行人の李榮根氏は1・21事件について「実践的統一運動が課題」とする25回の連載を掲載。「金日成政権の明々白々な誤り」と批判した。ゲリラ南派は武力侵攻行為であり、金日成が主張する「祖国の平和的統一論」「内部革命論」は偽りの扇動である、と指摘した。
統一日報は北、金日成の個人神格化、世襲体制に対して痛烈な批判をすると共に、朝総連の盲従体質を批判した。

7・4南北共同声明の「民主原則」脱落を批判

統一日報は70年8月15日、韓国の朴正煕大統領が「南北平和共存のため善意の体制対決を行おう」と宣言するや、「韓国の歴代政権者で初めて祖国統一の平和的解決を公式化した」と高く評価した。統一日報は当時、南北当局に向けた「和解の実践方案」を提案した。第1段階は、韓半島の平和構築に向けた南北間の事前措置として△双方ともに「傀儡」との呼称及び誹謗を中止する△スパイ、武装ゲリラの派遣禁止を約束しよう、というものだった。第2段階は、融和的実践方案として△離散家族訪問△人道的レベルの書簡交換△政治性を排除した人的往来を行おう、というものだった。青年統一運動家組織「韓民自青」はこの時、日本で南北の住民同士が自由に文通できるよう促す運動を展開し、署名者数が5万人を超えた。
72年の7・4南北共同声明時には、声明内容が「極めて矛盾的」と批判した。南北間が合意した統一の3大原則に、核心となる「民主」の原則が脱落しているとの指摘だった。△自主△平和△民族的大団結。この3点が揃ってこそ「民主原則」の前提が成立するが、それが欠落していると批判した。
統一日報の指摘通り、民主原則が欠落した状態では、南北当局者数人が野合し統一を推進することが可能だ。

1973年から日刊「統一日報」へ

1年後の73年9月15日、本紙595号から毎日発行する形に再び転換した。日刊紙としての挑戦だった。名称は「統一日報」に変え、現在に至っている。東京・新宿区四谷1―1番地に住所を置いていた頃だ。この日の1面トップは「本紙の信条と使命―日刊の発足に際し再び明らかにする」だった。
「本紙は祖国の平和的・自主的・民主的原則に基づいた統一実現に力を尽くそう」という理念を社是に奮闘してきた。
統一日報は日刊時代、第二の創刊辞を通し、五つの社命を提示した。一つ、韓半島の平和確保に闘争する(第二の6・25動乱は認めない)。二つ、南北間の反統一的要素を排除し、統一に向けた条件を作る。三つ、祖国の経済建設貢献に努力する。四つ、祖国の民主的発展のため努力する。五つ、在日同胞の民族的権益擁護のため奮闘する。文の終盤では「韓民族が世界から尊敬されうる誇り高い民族として認められるような報道の道を歩んでいく」と誓った。

時代を変えた数々のスクープ記事

日刊体制で、統一日報は多数のスクープを報道した。まず74年8月、朴大統領の夫人・陸英秀女史を狙撃した文世光の背景に対する追跡報道取材を精力的に行った。朝総連同胞の母国訪問団事業(母訪団事業)を大々的に報道し、南北離散家族訪問の新境地を開くのに貢献した。統一日報は政府に向け、朝総連の母国訪問を「大衆運動」へと転換するよう提案した。実際75年4月、最初の母訪団である川崎の総連幹部33人の出発記事をはじめ、様々な事例を紙面で紹介した。母訪団事業で朝総連から離脱し韓国国籍を取得した在日同胞の数は10万人に達した。
日本の書店街に「北韓は地上の楽園」と書かれた書籍が並んだ頃、「凍土の共和国」「暗闇の共和国」「朝鮮労働党略史」といった脱北者の手記と北韓の暴政の実情を連載し、大きな反響を呼んだこともある。
在日同胞社会の対日本権益擁護運動にも貢献した。出入国及び在日同胞の法的地位問題、就職及び公務員・学生奨学金などの国籍差別問題、公営住宅の入居問題、指紋押捺撤廃運動、民族教育の公的保障問題、民族金融機関問題、日本歴史教科書歪曲問題などだ。日本当局に向け、在日同胞が社会に晒された差別と不条理を是正することを論理的に追及する一方、在日同胞にとっては同胞同士の生活情報広場としての役割も担ってきた。
統一日報はまた、民団組織の瓦解危機のたびに救い手としての役割を担ってきた。72年8月の第1次民団事態、「ベトコン派」とされる者たちによる民団組織瓦解の試みでは、統一日報の別軸「韓民自青」の青年たちが民団組織の収拾に全面的に乗り出した。また、曺寧柱元統一日報会長の下で、75年まで民団の組織整備の先頭に立った。2006年5月17日、北韓政権の追従人士らによる民団瓦解工作事件でも、統一日報が最初に「親韓国同胞組織に対する瓦解工作」と断定した。

「統一日報」その存在意義と課題

一方、統一日報の内部的には長い歳月なりの変化があった。1971年の元心昌氏死去に続き、90年には創業者兼発行人の李榮根氏、95年には第2代社長兼発行人の李承牧氏が他界した。現在は、姜昌萬社長が発行人を兼ねている。残念ながら、73年から続いてきた日刊体制は維持することができなかった。98年5月、25年間の日刊発行を終え、週刊紙へと転換した。時代は変わったが、「統一運動の先鋒となる民族紙に」という創刊の誓いは、分断された祖国を一つにするという後輩たちの誓いでもあり、統一日報が存在する意義なのだ。
いま、「統一日報」は「北」の核完全廃棄と「北」を解放し自由統一を実現することに向けて努力している。

2019-01-01 12面
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