洪熒・本紙論説主幹
陸軍本部作戦教育処長の張垌淳准将は全羅北道金堤出身であだ名が「農林部長官」だった。平素農村のことをよく話していたのでついたあだ名だった。このあだ名のため彼は革命政府の農林部長官になる。革命内閣の人事作業は呉致成大領が主に担当した。「農林部長官」である張垌淳を本当の農林部長官に推薦した。
張垌淳長官は農林部の全職員を集めてこう言った。「今までの問題は一切不問に付します。私の前任者が皆さんを適任者だと思って任命したはずです。赴任したばかりの私は何も知らないので人事異動はしません。どうぞ所信をもって働いてください。私と一緒に仕事できない人は2種類だけです。
第一は、無知な人です。自分の仕事まともにできないくせに、他人の仕事に干渉する人が無知な人です。これから自分の仕事以外は私に話さないこと。他人の話を私にする人は直ちに解任します。
第二は、無能な人です。自分の担当の仕事もできない人です。無知で無能な人は私と一緒にやれません。農林部は仕事があまりにも多すぎます。今日から土曜日も日曜日もありません」
過去を問わないとしたので弱点の多かった公務員たちは安心し「死に物狂いで働いた」という。張垌淳は陸士8期特別期出身で、全北中学校で一緒に教鞭をとった金起鳳中領を長官特別補佐官に任命した。彼は当時をこう振り返った。
「韓国軍は、米国の優れた行政学者たちが作った軍事行政技法を伝授し、これに基づいて戦争をして養兵をしていました。報告書を作成しても一目瞭然に強調すべき部分をタイトルとしましたが、農林部に来て見たら、あらゆる美辞麗句の文章の中で何が強調されているかも分かりづらかったのです。タイプライターを使わず、カーボン紙を敷いて書いた複写文書らは褪せて読めませんでした。まずタイプライターを普及し、学ぶようにしました」
法秩序を転覆させた軍事政権が建国後、最大の法律整備で韓国の法治に実質的に寄与することになった経緯はこうだ。最高会議の法司委員長の李錫濟は軍政を支える立法活動で驚いた。ほとんどの法令が韓国語に翻訳されておらず、朝鮮総督府時代の日本の法令や米軍政の法をそのまま使っていた。
解放されてから16年、ハングル専用法ができたのが1948年なのに、自国語の法令集がないなんてこれが主権国家かと嘆いたという。「大韓民国を日本語と英語の法律で治めるとは」という鬱憤が湧いた李錫濟は、直ちに改革に着手した。
朴正煕副議長に実情を報告した。朴副議長は「今まで大韓民国を朝鮮総督府の法律で運営して来たのか。国がどうしてこんな有様だったのか。一体国会議員や政治家や公務員たちは何をしたのだ。法司委員長は解決策があるのか」と問い詰めた。
「手遅れですが、今からでもあらゆる力量を集中して大韓民国の法令体系を立てなければならないと思います」
「膨大な作業なのに、どんな方法で短い期間に、このような多くの法律を見直し、制定できるというのか」
「閣下、今は革命状況です。大韓民国の統治の根幹となる法律体系を私が作って見ます」
法令の翻訳作業と並行して韓国の実情に合わない日本の法令を廃棄し、必要な法令を新たに作った。このため、各部処に法務室制度を新設した。李錫濟は除隊した後に司法高試に受験するため法律を勉強したが、それがこの一大改革措置に役に立ったのだ。
(つづく) |