1946年1月18日、朝連ソウル委員会が結成され、釜山に出張所が置かれた。2月の第2回中央委員会では臨時2全大会の開催も決定した。2全大会(2・27~28)では、ソウルの朝鮮民主主義民族戦線への加盟と支持が承認されたため、民族派はこぞって脱退した。さらに、民族教育の強化と初等学院の増設が決議され、3・1政治学院と8・15学院の開設も決定した。親日派反動団体との闘争強化が強く叫ばれ、朴烈一派の建同(新朝鮮建設同盟)と建青(朝鮮建国促進青年同盟)の粉砕が決議された。
さらに、臨時2全大会の冒頭で「朝連幹部総辞職決議案」を朗読提案した金載華を、その日に除名処分した。金載華一派とみられた卞栄宇労働部長と、無任所部長の呉宇泳、徐相漢らは脱退した。これにより、朝連中央を左派一色で固めることに成功したといわれている。
朴烈は46年1月20日、建青が事務所を置いていた東京青山の陸軍大学で建同を結成。委員長に就任した。建同への参加は、朝連の左傾化を不満としていた李康勲、元心昌、権赫周(権逸)らの誘いを受けたことによるもので、朝連に対抗する一大組織の確立を目指した。
建同と建青は、各地で反託国民大会を開催し、大いに気勢をあげた。一方の朝連は、依然として沈黙を続けていた。2月、ソウルで行われた米ソ共同委員会の決裂により、南北の対立が明確化された。朝連はこれを受け、信託統治支持の立場をとった。信託統治問題は、民族感情的には本来反対の立場となることが必至だった。朝連は行動と感情の矛盾を合理化するため「連合国が朝鮮を解放した。従って、その決定を支持することが民主主義の道である」と理論づけた。韓国の左派陣営も同じ理論に終始した。
建同の組織が強化されなかった原因については、様々な指摘がある。その一つとなるのが、朴烈後援会の財政乱脈に端を発した事件だ。具体的には朴烈が、卞栄宇、呉宇泳、元一等らを八王子山中に監禁し、朴烈後援会から手を引くよう強要したというものだ。一部では、この事件が朴烈に対する不信を招いたとされている。
朝連の左傾化路線に反対した人士らは、朝連の暴力的運動方針によって虐げられた。拳銃で脅されたり、激しいリンチを加えられたりして、瀕死の重傷を負った者も少なくない。そうした抵抗が、建青と建同の大同団結となった。
建同の朴烈、李康勲、元心昌、高順欽、呉宇泳、呉基文らと洪賢基ら建青役員らは46年11月3日、東京日比谷公会堂で在日本朝鮮居留民団(民団)の結成大会を開催した。全国から218人の代議員、並びに約20の団体代表と約1000人が参集した。
結成大会では、(1)在日同胞の民生安定(2)在留同胞の教育向上(3)国際親善の宣言文を採択し、初代団長に朴烈を選出した。事務所は東京都新宿区松葉町(現東京韓国学校)に設置された。
一方、理論と闘志に長じ、すでに強固な既成地盤をもつ朝連に対しては、常に押され気味であった。朝連の暴力活動に怯え、民団は組織の拡大に難儀していた。
朝連中央委員一同は46年3月、皇居前広場で開催されている3・1記念式典に参加した。3000人の同胞を前に金天海は「天皇制の打倒、日本民主政府の樹立、祖国の統一と民主政府の樹立」を強く叫んだ。
このアジ演説を聞いた朴烈は「いつも馬鹿なことを繰り返し話している。天皇制の打倒などは日本人がやることで、我々には関係のないことだ」と語ったとされる。
朝連は、一枚看板ともいえる金天海をかついだ。金天海はしかし、朝連運動に打ちとけることはなかった。戦時下における共産党シンパなどの中から、名の知られていなかった金正洪などがYMCAの尹槿とタイアップしていたとされる。
これに対し民団では、朴烈を先頭に16年獄中生活を強いられた元心昌、李康勲や高順欽などのメンバーがそろっていた。”人気集め”という点では朝連を圧倒していた。中でも、朴烈は色々な意味で帝王的存在であったといわれている。
(つづく) |