洪熒・本紙論説主幹
李承晩の権威主義体制が消えるや、李承晩が最も警戒した朋党政治が現れた。張勉政府の不安定は、総理と大統領の対立が主な原因だった。尹〓善大統領は象徴的な国家元首の地位に満足しなかった。憲法は大統領が政党に属することを禁じていたが、彼は自分が属していた民主党旧派や新民党の利益を代弁した。さらに、急ぎ過ぎた新憲法に、大統領が国軍統帥権を行使するとされていたのも、大統領と総理の対立を増幅させる要因となった。
旧派が去った民主党は、老壮派と少壮派という新しい派閥ができた。彼らは閣僚のポストなどをめぐって対立した。張勉政府は、初組閣から10カ月間、3回も内閣改造をした。国務委員の平均在任期間は2カ月に過ぎなかった。張勉政権は政争ですべてのエネルギーを消耗した。
自由党政府を崩壊させた「4・19」は労働運動を活性化させた。最も活発に活動し始めたのは教員労組だった。学生と同様の批判意識を持った教師たちが動いた。革新系の教師たちが「韓国教員労働組合総連合会」を結成して政府と体制を圧迫した。全国10万人ほどの教師のうち4万人が加入した。 「全国銀行労働組合連合会」や「大邱日報労働組合」のような労組が出現した。労働争議が増え、社会全体に不安が広がった。
張勉政府の10カ月間、街頭デモが2000件、デモ参加者は延べ100万人に達した。警察官もデモし、論山訓練所の訓練兵たちは将校たちが彼らを馬鹿にするとデモをした。
体制への最大の挑戦勢力は学生だった。学校内の各種紛争や同盟休学などが続いた。政府を倒した学生運動組織は、もはや牽制されない権力のように行動した。示威が社会全般に拡散し小中学生もデモをした。青年学生の組織がソウル各地域の警察署を接収し治安を担当したり、「4月革命遺族会」が主導して国会に乱入し暴力を振るう事態も起きた。学生たちが主要国家政策に干渉し始めた。彼らは、民主党政府が反共法と示威規制法を制定することに猛反対した。
社会の放縦を煽ったのは無責任なメディアだった。国会が国家保安法を改正して無条件の言論自由を保証したためだった。41社だった日刊紙が1960年12月末までに389社に増えた。新聞亡国論が台頭した。
自由が無制限に許されるや、6・25戦争後潜伏した左派勢力も公然と活動し始めた。1960年12月、麗水と順天地域で教師と学生たちが旅客船を拉致して越北を試みた事件が発生した。反米が表面化した契機は、1961年2月、締結された韓米経済協定だった。米国はこの協定を通じて、李承晩大統領の頑な抵抗で確保できなかった韓国経済に対する監督権を強化した。特に問題となったのは、韓国政府が米国の財政および技術援助をどう使用するかについて監督する権限を持つことと、援助に関連するすべての情報を韓国政府が米国政府の要求に応じて提供せねばならないという規定だった。
学生たちは、米国が韓国の主権を脅かし、隷属化していると主張し、社会の不満を反米主義へと転換しようと試みた。延世大学校では、米国人総長に敵愾心を表した。ソウル市内の7つの大学の民族統一連盟が反対闘争委員会を結成した。彼らは民族解放を実現し、植民主義を清算すべきと言い、この協定の廃棄を主張した。続いて、16の政党と社会団体が韓米経済協定反対の共同闘争委員会を結成した。彼らは張勉政府を「第2の朝鮮総督府」と攻撃した。(つづく)