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2018年02月07日 00:00
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大韓民国の建国史(99)1950年代、米国を通じての海洋文明へ編入

洪熒・本紙論説主幹

 大韓民国が共産陣営の攻撃に耐えて生存した1950年代に対する評価は極端に分かれる。『解放戦後史の再認識』(2006年2月)は、この歴史的時期についての科学的研究を集めた本だ。この中で、柳永益教授の『巨視的に見た1950年代の歴史南韓の変化を中心に』という論文には、当時の急激な社会像の変化が具体的に書かれている。内容を要約紹介する。
李承晩大統領の「民主独裁」は権威主義的統治ではあったものの、戦争中も予定されて選挙は行われた。共和制の民主主義(選挙制度)は定着されたが、与党であっても選挙で勝たねばならず、それで不正選挙もあった。
李承晩政権を民主主義の試練期だの、独裁だのと非難するが、李承晩の前に韓半島には民主主義そのもの存在しなかった。李承晩は戦争と混乱、悲劇的な絶望の中で、韓半島に民主主義(選挙制度)を定着させた偉人だ。
韓半島の1950年代の特別な意味は、教育革命だった。国家財政を米国の援助に頼る状況でも、義務教育が実施された。教育に対する国民的期待と需要が爆発した。貧しい農民たちも貧困から抜け出す唯一の道を教育で求めた。
1945年から1960年間、小学生は163万人から359万人、中高生は13万から78万人へ、大学生は7800人から9万8000人に増えた。女子大生の数は1086人から1万7000人に増えた。大学卒業生が急増し「大学亡国論」と心配されたほどだった。すべてが破壊され、新しい秩序を待っている状況で、社会的な成功と幸福を決めるのは学歴だった。
大学を卒業しても、もちろん職場はなかった。だが、これこそが1960年代以降の高度成長を可能にした社会的能力の蓄積だ。
李承晩政府は特に、米国の先進文物を学ぶよう、海外研修や留学に投資した。多くの軍人と官僚と学生が外国へ行った。1953年から1966年間、海外留学認定選抜試験に合格した留学生は、7398人で、この中で6368人(86%)が米国に留学した。1950年代に米経済援助処(USOM)が斡旋した留学、短期研修と視察のための「教の交換計画」を通じて2464人の韓国人が外国に行ってきたが、72%の1774人が米国へ行った。
米国務省が後援した短期視察計画に、「指導層」と「専門家」と学生など940人が参加した。ほかにも国軍の質的向上のため1950年代に軍の指揮官と将校たちが、9000人以上も米国の各種軍事学校に派遣されて教育と訓練を受けて戻った。日本が明治維新のとき、短期間に近代化を達成するため、外国に行って文物を理解、吸収した過程と似ていたと言える。
彼らがエリート層を形成する。韓国人の米国移民も激増した。1950年から1964年間1万4027人が米国に移住した。韓国人の米国進出は、政治的、経済的、社会的、学術・文化的に様々な肯定的な利得をもたらした。
結論として、1950年代は、韓米関係が絶頂に達した時期で、米国の傾倒する問題点はあったが、長期的に見て、韓国人たちの西欧文明への認識のレベルを高め、先進科学技術を摂取、研磨しながら、西欧中心の近代的国際秩序の中に入り「世界人」の資格を得るのに大いに貢献した。
経済的にも私有財産の保護と自由競争に基づく資本主義経済という原則の下、国民個人の創造性を最大限にした。土地の生産に依存してきた韓国が、農業中心の生産体制から工業と商業などを重視する経済体制へと変わり始めた。
(つづく)

2018-02-07 3面
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