洪熒 本紙論説主幹
韓国は金日成の奇襲南侵で洛東江橋頭堡まで追い込まれたが、国連軍が反撃して韓満国境まで北韓軍を追撃した。中国軍の侵略で国連軍が北緯37度線付近まで後退すると、再び中共軍をソウルの北方へ押し返す機動戦が展開され、戦況は固着局面に入った。米国は中共軍の介入により、韓半島での軍事的勝利は不可能だと判断し、名分のある休戦と、日本を再武装させて中共とソ連を牽制する方針を決めた。
平壌放送が6月28日、「38度線の回復」という条件で休戦を受容れる意思があると報じるや国連軍司令部は翌29日、共産側に休戦会談を提案した。韓国国会は「38度線停戦反対決議案」を満場一致で決議し、李承晩も30日、停戦協商反対の声明を発表した。
6・25戦争は、歴史上最も多くの国々が単一連合国を構成したとしてギネスブックに記録された。当時の独立国の73%に該当する世界67カ国が、大韓民国を支援した。参戦派兵16カ国、医務支援5カ国、物資支援40カ国、戦後復興支援6カ国だった。国連軍に戦闘部隊を派兵した国のうち、イスラム国家だったトルコとエチオピアの軍の奮戦は特記すべきだ。
トルコは歩兵旅団を派兵した。第一次世界大戦にも参戦した勇将で階級を降格して参戦したタフシン・ヤズジュ(Tahsin Yazici)准将が指揮する第1歩兵旅団が1950年10月19日、釜山に上陸し、米軍とともに北進した。中共軍が国連軍を包囲した軍隅里戦闘(1950年11月26日~30日)で218人の戦死者と455人の負傷者、失踪者100人を出しながら、全滅の危機に直面した米第2師団を救い、米8軍の全面崩壊を防いだ。トルコ軍はその後、京畿道龍仁の金良場戦闘(1951年1月25日~27日)でも中共軍を大いに打ち破った。
京畿道漣川での戦闘(1951年4月22日)では、トルコ軍の防御陣地が中共軍の手に落ちると、砲兵観測将校だったメフメット・コネンツ中尉は捕虜になるのを拒否し、友軍に陣内射撃を要請。中共軍を殲滅して戦死した。韓国の国家報勲処はメフメット中尉を戦争英雄として称えている。トルコ軍は延べ1万4936人が参戦。戦死765人、負傷2147人、失踪175人、捕虜346人、非戦闘損失346人を出した。釜山の国連記念公園には、トルコ軍戦死者462人が眠っている。
エチオピアは皇室近衛隊から構成されたカニュー(Kagnew)と命名された歩兵大隊(1188人)を派兵した。大隊はセラシエ皇帝に遠征を申し出、1951年5月6日、釜山に上陸して米7師団に配属された。鉄原地区防御戦闘など、中部戦線で戦った。延べ6000人余り派兵され、121人が戦死、536人の負傷者を出した。エチオピア軍は決して降伏しなかったため捕虜がいなかった。
戦場の将兵は壮烈に戦っていたが、政治的・戦略的に停戦を望む米英などは、休戦に反対する李承晩を疎ましく思うようになった。李承晩の政治顧問だったロバート・オリバー博士は、韓国へ出発する前の1951年7月1日、家族に次のような手紙を送った。
「韓国の危機は好転ではなく、悪化している。李大統領は妥協せず、国連軍が戒厳令を宣布し、韓国軍の将軍たちと政治家が組んで彼に国連軍の協定受け入れを強要するなど、彼を失脚させようとすることが起こると私は今信じている」
米国はオリバーが懸念したとおり、李承晩の失脚や除去作戦を進める。(つづく)