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2017年06月07日 00:00
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大韓民国の建国史(72)

洪熒 本紙論説主幹

 南北は死力を尽くして戦った。国連軍の主軸だったウォーカー米8軍司令官が戦死してから約1カ月後の1月31日、北韓軍前線司令官の金策も過労で死亡した。
中共軍は西部戦線で国連軍に押されたことを挽回するため、大田と安東以北の占領を目標に、中部戦線で第4次攻勢(2月11日~18日)を展開したが、5万人以上の戦死者を出し失敗した。中共軍は江原道・横城を奪取するため、4個師団を動員して国軍8師団を撃破し、2月13日、京畿道楊平郡の砥平里を攻撃してきた。楊平は南漢江流域を掌握する要衝で、フランス軍大隊が陣地を構築していた。
韓国軍と米軍はシンマチ峠を防御できず後退した。砥平里戦闘は中共軍の人海戦術に対し、国連軍が陣地を固守し、勝利した最初の戦いだった。米23連隊とフランス大隊の5600人は、1・6キロの円形陣地を構築し、中共軍39軍の3万人の包囲攻撃を撃退した。米第2師団が救助に来るまでの3日間、昼夜問わず血戦を行った。
フランスの大隊長はモンクルラール中佐だった。モンクルラールは、第1次世界大戦と第2次世界大戦で外人部隊を指揮し、ドイツ軍と戦った陸軍中将だった。国連が韓国支援を決定した当時、フランスは、アフリカやインドシナでの植民地を維持するための戦争中だった。韓国に派兵する余裕はなかったが、モンクルラールはフランス全国をまわって1300人を募兵し、軍の規定に基づいて、自分の階級を3星将軍から中佐に4段階も降格させ、大隊長として参戦した。
中共軍は、フランス大隊の奮戦と国連軍の「火海戦術」に屈し、2月18日、中部戦線から総撤退することになる。モンクラールは、フランスがドイツに敗北し、イギリスに亡命してレジスタンス活動をするときの仮名だった。この戦争の英雄は1964年に他界した。葬儀を直接主管したのは時の大統領ドゴールだった。
国連軍はリッジウェイ第8軍司令官の指揮下、中部戦線とソウルを再奪還した。2月6日、中部戦線では38度線の40キロ前まで迫った。米25師団所属の国軍は9日、ソウル市に突入して中共軍と市街戦を展開。東部戦線では11日、韓国軍首都師団が、38度線を突破して襄陽を奪還した。
国連軍参戦国の部隊もみな、勇猛に戦った。大隊級以上の戦闘部隊を派兵した国々の中では、特に先述のフランス軍、イギリス軍、トルコ軍、エチオピア軍などが国連軍の作戦遂行に絶対的な貢献をした。
6・25戦争に参戦した米軍は、延べ約199万人だ。この中には、米軍将星の子142人も含まれる。この142人のうち35人(24・6%)が戦死か負傷した。参戦米軍全体の死傷者割合(8%)の3倍という高い割合だった。リッジウェイ将軍の後任として米8軍司令官になったヴァン・フリート将軍の息子も、爆撃機のパイロットとして出撃し、失踪した。ヴァン・フリートは、失踪した息子や同僚乗組員の捜索作戦を、通常の構造捜索作戦以上にしないよう指示した。共産側でも、毛沢東の息子の毛岸英が戦死した。
マッカーサーは3月24日、中共軍司令官に降伏するよう最後通告を送り、この事実を公開した。3月15日にソウルを再奪還し、中共軍を臨津江河口‐華川ダム‐杆城をつなぐカンザスラインまで後退させたリッジウェイなど一線の指揮官は、命令さえ下れば、平壌‐元山線まで進撃する勢いだった。
(つづく)

2017-06-07 3面
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