線路を敷くにはまず、基礎に砂利を敷き、その上に土を盛り上げて土塁を築き、直径40センチほどの丸太でたたきながら固める。丸太には4本の棒がついており、2人1組になって両手で棒を握り、息を合わせてたたき固めるのだ。ちょうど4本足のタコを逆さにしたような道具なので、日本では「タコ」と呼ばれているらしい。とにかく、汗だくになるほどの重労働だった。
女性同盟の人たちはバケツなどの容器に砂利を入れて、それを頭に乗せて土塁の上に運んでくれた。学生や青年同盟(社会人)は担架で砂利や砂を運搬した。土塁の上に敷くのが、よく線路で目にする石だ。これは近所の採石場からトリの卵よりも少し大きめに砕いたものを持ってきていた。その上に杉でできた枕木を置く。枕木はシベリアから持ち込まれたもので、コールタールが塗られていた。
枕木を運ぶのは社会人の動員部隊だったが、枕木を規則正しく並べてレールを敷き、それをスパイクで打ちつけて固定したのは人民軍第7総局の工兵部隊だった。この部隊は全国の主要建設対象に投入される専門部隊である。
北朝鮮では、とにかく一から十までが人海戦術であった。無報酬の労働力がいくらでも手に入るから、どうにかなってしまうのである。
トンネル工事の方は、ほかの市や郡から来た部隊の担当だった。トンネルといっても、普通の鉄道用のトンネルを想像してはいけない。長さ120メートル(計画は400メートル)、幅4・5メートル、高さ5メートルで、防空壕のような頑丈さで造られた。
トンネルはいざというときに備え、国家元首をはじめとする要人たちの一時退避壕としても使える強度を誇っていた。戦争が起きて海上の敵艦から艦砲射撃を受けたとしても耐えられる強度になっているため、特別列車がそのまま岩盤とコンクリートに守られたトンネルに逃げ込めるということである。
またこのトンネルと線路は、最北端に軍需物資を届けるための軍用路線でもあった。東海岸から白頭山の下を通り、いずれは西海岸までつなげるという壮大な国家プロジェクトであるとも聞いた。金日成の死で鉄道のプロジェクトは中断となったが、道路はつながった。
私は北にいた時の体験談をいろいろな場所で話してきたが、政治犯収容所の解体や鉄道建設について公表するのは初めてだ。思い出すのも嫌な出来事だったからだ。
読者の中には私の話を疑う人もいるかもしれない。無理して信じ込もうとしてほしくもない。
ただ、もし近い将来に北朝鮮の現体制が崩壊し、日本や韓国の方々が何の規制もなく北朝鮮に行けるようになったら、今まで私が記してきた場所に行ってみてきてほしい。その場所にはここに書いてある風景や建物の痕跡があると確信をもって言える。同時に、私が当時植えたポプラやアカシヤの木が成長し、立派な森林資源になっていると信じている。(つづく) |