ウォーカー8軍司令官は、デービソン線までの全面撤収命令を準備していた。永川が占領されたため大邱が敵の手に落ちるのは明白で、そうなれば米軍は韓国を放棄することになる。その際、韓国軍2個師団と選抜された民間人10万人を、済州島とハワイ、グアムなどに移送し、亡命政府を樹立する計画だった。
丁一権参謀総長がこの内容を李承晩に報告すると、大統領は「ウォーカーという人物は歴戦の猛将と聞いたのに、臆病者ではないか」と言い、失望の色を隠さなかった。
「2個師団と10万の民間人をハワイに連れて行くということか。故国を離れて日本帝国主義と戦ってきた私に今、同族を率いて再び故国を離れろというのか」
李承晩は激怒して言った。
「丁将軍! ウォーカー将軍に伝えなさい。私、大韓民国の大統領は、誰かに言われて祖国を離れる卑怯者でないと。私、李承晩は、共産軍がここ釜山まで来たら、先頭に立って戦う。私の寝室のベッドサイドにはいつも拳銃があると伝えなさい。行くなら行けと言いなさい。米軍は、なぜここに来たのか。共産侵略軍を打ち破って正義と自由を守るため来たのではないか。なのに、ちょっと危険だからと撤退するのなら、自分たちだけで撤退しろと伝えなさい!」
永川を占領した人民軍はその頃、慶州方面へ進撃した。これを予測した劉載興軍団長は、慶州への進路に8師団と7師団の5個連隊を待ち伏せさせ、敵を待った。9月10日から13日まで、国軍は戦史に残る「永川殲滅戦」を展開した。この戦闘で人民軍2軍団の15師団は、死者3799人・捕虜309人など、投入兵力がほぼ射殺されるか負傷する壊滅的な打撃を被った。国軍は戦死29人、負傷148人、失踪48人という軽微な被害だった。永川殲滅戦の大勝で、米軍のデービソン線への撤退はなかったことになった。
永川殲滅戦が始まる前日の9月9日、慶州地域の防衛線が敵の大攻勢で危うくなった。丁一権は、首都師団18連隊(別名・白骨部隊)連隊長の任忠植大領に、次のような訓令を出した。
「大韓民国の命運は、白骨部隊の諸君の勇戦にかかっている。諸君は白骨となって慶州を死守せよ。本職は諸君の奮発を信じて疑わない。あえて言う、諸君は慶州を墓にして全員玉砕せよ!」
18連隊は、連隊長以下全将兵が白いどくろが描かれた鉄帽をかぶっていた。戦闘をすれば勝利し、人民軍に恐れられた。立派な戦功をあげて全部隊員が二回も一階級特進した。この誇り高い連隊に参謀総長が玉砕を命じると、任忠植は全将兵にこう訓示した。
「わが連隊の誇り高き白骨精神を遺憾なく発揮する時が来た。参謀総長の格別な激励に従い、連隊長は陣頭に立って慶州を死守する。この連隊長が陣頭に立つ。連隊長が陣頭から少しでも退けば、誰でもいいからこの連隊長を撃て。そして連隊長の体を盾に最後の一兵まで戦え。そして、諸君の中で白骨精神を汚す者がいれば、この連隊長が容赦なく罰する」
全将兵は一斉に「白骨! 白骨! 白骨!」を三唱して決死の文字を鉄帽にくくりつけ、慶州を守り抜いた。慶州を防御しただけでなく、支援した米軍第19連隊と共同で杞溪・安康を奪還、人民軍12師団を逆包囲して殲滅した。
8月下旬からの洛東江戦闘では、小銃射撃法だけを教えられて戦闘に投入された学徒兵たちも戦った。李承晩は9月13日、38度線は自動消滅したと言明した。
(つづく) |